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9月8日、今日は【北条早雲、忌日(1519)】
更新 : 2011/9/8 22:42
今日は【北条早雲、忌日(1519(永正16)年)】です。
北条早雲(ほうじょうそううん)とは、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢宗瑞(いせそうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。
室町幕府の御家人・伊勢氏の一族だった北条早雲(当時は伊勢新九郎と名乗っていた)が、1476(文明8)年の今川義忠の戦死をきっかけにして起こった今川氏の内紛の際に甥の今川氏親を支援したことが伊勢氏(北条氏)が関東圏に勢力を築くきっかけとなった。後世成立の軍伝等では、この功績により氏親から駿河国興国寺城が与えられたことになっている。
1493(明応2)年、幕府の管領・細川政元による足利義澄の将軍擁立と連動して、伊豆国に侵入し、堀越公方の子、足利茶々丸を新将軍の母と弟の仇として討つという大義名分のもとに滅ぼし、以後積極的に伊豆国を攻略して所領としたと伝えられている。
1495(明応4)年には大森氏から小田原城を奪って本拠地を移し、1516(永正13)年に三浦半島の新井城で三浦義同を滅ぼして、相模国全土を征服した。北条氏を称したのはこの北条早雲の子・氏綱が名字を伊勢から北条に改めてからのことだが、今日では便宜上、早雲庵伊勢宗瑞に遡ってこれを「北条早雲」と呼んでいる。
既に老いの境に入った一介の伊勢の素浪人が、妹が守護の愛妾となっていたのを頼りに駿河へ下って身を興し、後に関東を切り取る一代の梟雄北条早雲となる、というストーリーが従来小説などでよく描かれていた。
江戸時代前期までは後北条氏は名門伊勢氏の出と考えられていた様子だが、江戸時代中期以降、『太閤記』の影響で戦国時代を身分の低い者が実力で身を興す「下克上の時代」と捉える考えが民衆の願望もあいまって形成され、明治時代になって定着し、戦後まで続いた。その下克上の代表として北条早雲、斎藤道三、豊臣秀吉が語られ、早雲は身分の低い素浪人とすることが通説となった。