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9月18日、今日は【毛利隆元、忌日(1563)】
更新 : 2011/9/20 14:44
今日は【毛利隆元、忌日(1563(永禄6)年)】です。
毛利隆元(もうりたかもと)とは、戦国時代の武将。安芸の守護大名、戦国大名。本姓は大江氏。家系は大江広元の4男・毛利季光を祖とする国人領主・毛利氏。周防・長門・安芸・備後・備中守護職として、毛利氏による中国地方支配を正当かつ盤石なものとした。
1523(大永3)年、毛利元就の嫡男として安芸多治比猿掛城で生まれた。幼名は少輔太郎。毛利氏の第14代当主。吉川元春、小早川隆景の同母兄。正室は大内義隆の養女(長門守護代・内藤興盛の娘)である尾崎局。後に豊臣政権で五大老となった毛利輝元の父。
父に先立って死去したため、当主として実権を握ることはなかった。が、優れた内政手腕によって父を陰ながら支え続けた。官位は従四位下・大膳大夫。贈正三位。
温厚かつ篤実で、孝心の篤い仁将であったと言われる。また政治面でも秀でており、晩年、元就直属の重臣達と隆元直属の官吏達との間で意見対立が生じたことなどから、自分独自の派閥を組織できるだけの政治力を持っていた。
しかし一方で、元就の隠居表明には狼狽し、「父が隠居するなら、自分も幸鶴丸に家督を譲って隠居する」と自棄的に嘆いたことがあるなど、極めて自己卑下の激しい人物であったことが窺える。元就は書簡の中で隆元を「優柔不断で武将としての資質に欠けている」と評しており、隆元への実権移譲が行われなかった。しかし皮肉にも隆元が死去してから彼の真価は見直されることになる。
隆元の死後に問題となったのは財務の事であった。商人や領民に人望があり「信頼」と言う名の顔の効いた隆元のように弟達や元就は上手くやりくりできず、これによって毛利家は多く損害を受けた。
「三本の矢」の逸話の影響もあって、現在では良好だったと伝わる三兄弟(隆元、元春、隆景)の仲だが、実際は所領分割や三家それぞれの運営、更には三兄弟の性格の相違など、様々な問題を抱えていた。事実、隆元は父・元就に向けて「近頃、元春と隆景の両弟は吉田郡山に来ても長期滞在せず、それぞれの家のことばかりに固執し、相談事があっても私ではなく父上を相手にする。これは二人が私を見下して除け者にしているようで、非常に腹が立つ」といった意味合いの書状を送っている。この書状によって、元就は三兄弟の不仲ぶりを痛感し、『三子教訓状』の発行と毛利両川体制の構築を思い立ったとされる。