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  • 9月26日、今日は【脇坂安治、忌日(1626)】

    更新 : 2011/9/26 21:42

    今日は【脇坂安治、忌日(1626(寛永3)年)】です。

    脇坂安治(わきざかやすはる)とは、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。淡路洲本藩主。後に伊予大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代。家紋は「輪違い」。

    1554(天文23)年、脇坂安明の長男として、近江国浅井郡脇坂庄(現・滋賀県長浜市小谷丁野町)で生まれる。はじめ浅井長政に仕えたが、1573(天正元)年の浅井氏滅亡以後は、織田家に属し、明智光秀の与力として黒井城の戦いなどで功を立てる。

    後に、木下藤吉郎に自ら頼み込んで家臣となる。その後は播磨国の三木城、神吉城攻めなど、秀吉の諸戦に従軍して功を重ねた。1576(天正4)年には150石を与えられ、1578(天正6)年の三木城攻めでは秀吉より白輪違紋入りの赤母衣を賜り、以後家紋とした。

    1583(天正11)年、賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられ、その戦功により山城国に3,000石を与えられた。この戦いの折、柴田勝政を討ち取ったという説がある。小牧・長久手の戦いでは伊勢・伊賀方面で滝川雄利の伊賀上野城を攻略するなどの手柄をあげ、1585(天正13)年10月には淡路国洲本で3万石を与えられた。

    その後は加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に水軍衆の指揮官を務め、九州征伐、小田原征伐や朝鮮出兵などに従軍した。朝鮮での功績から、淡路内で預かっていた太閤蔵入地より3,000石を加増されて3万3,000石の大名となる。

    秀吉の死後、安治は徳川邸に駆けつけた。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでも家康に与するつもりであったが、安治が大坂に滞在していたときに石田三成が挙兵したため、やむなく約1,000名の兵を率いて西軍に付いた。

    9月15日の本戦では、東軍と内通の風聞があった小早川秀秋に備えて朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと共に配置されていたが、午後に入り小早川隊が大谷隊を攻撃するとそれに乗じて他の3将と共に寝返る。戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵された。

    1609(慶長14)年9月、伊予大洲藩5万3,500石に加増移封された。1614(慶長19)年からの大坂の陣では徳川・豊臣のどちらにも参加しなかった。1615(元和元)年に次男・安元に家督を譲って隠居する。その後は大洲を去って京都西洞院に住み、剃髪して臨松院と号した。1626(寛永3)年8月6日(旧暦)に京都で死去。享年73。

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