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  • 9月27日、今日は【竹中重治、誕生日(1544)】

    更新 : 2011/9/27 21:04

    今日は【竹中重治、誕生日(1544(天文13)年)】です。

    竹中重治(たけなかしげはる)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。竹中半兵衛(たけなかはんべえ)の通称で有名。戦国時代を代表する軍師としても知られ、織田信長の家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「二兵衛」「両兵衛」と並び称された。

    1544(天文13)年、美濃斎藤氏の家臣で美濃国大野郡大御堂城(現・岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元の子として同地に生まれる。1561(永禄4)年に国主・義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕える。

    ところが、主君・龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていた。このため1564(永禄7)年2月、弟・重矩や舅・安藤守就とともに龍興の居城・稲葉山城(後の岐阜城)を16人の部下とともにわずか1日で奪取した。織田信長は重治の稲葉山城奪取を知ると、城を譲り渡すように要求したが、重治は拒絶し、8月には自ら稲葉山城を龍興に返還した。その後は斎藤家を去り、北近江の戦国大名・浅井長政の客分として禄を賜るが、約1年で禄を辞して旧領の岩手へと帰り、隠棲した。

    1567(永禄10)年、織田信長の侵攻により斎藤氏は滅亡した。すると信長は、浪人していた重治を自分の家臣として登用したいと考え、美濃攻めで頭角を現していた木下秀吉(後の豊臣秀吉)に勧誘を命じ、秀吉は「三顧の礼」で重治を誘った。

    秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。1578(天正6)年、宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ、信長に賞賛された。同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して秀吉幕僚の黒田孝高が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で捕縛されたため、信長は孝高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じた。しかし重治は秀吉に偽の首を進呈させ、松寿丸の命を助けたのである。この後、助け出された孝高はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。

    1579(天正7)年4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れた。秀吉は京都で療養させたが、武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して向城の平山に至り、陣中にて旧暦6月13日に死去した。享年36。死因は肺の病気とされる。

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