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9月27日、今日は【遠山景元、誕生日(1793)】
更新 : 2011/9/27 22:07
今日は【遠山景元、誕生日(1793(寛政5)年)】です。
遠山景元(とおやまかげもと)とは、江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を務めた人物である。時代劇『遠山の金さん』のモデルとして知られる。幼名は通之進、通称は金四郎。官位は従五位下左衛門少尉。
青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたといわれる。有名な「桜吹雪」である。しかしこれも諸説あり、「右腕のみ」や「左腕に花模様」、「桜の花びら1枚だけ」、「背中に女の生首」、「全身くまなく」と様々に伝えられる。また、彫り物自体を疑問視する説や、通常「武家彫り」するところを「博徒彫り」にしていたという説もある。彫り物をしていた事を確証する文献はないが、時代考証家の稲垣史生によれば、若年のころ侠気の徒と交わり、その際いたずらをしたものであると推測される。続けて稲垣の言によれば、奉行時代しきりに袖を気にして、めくりあがるとすぐ下ろす癖があった。奉行として入れ墨は論外なので、おそらく肘まであった彫り物を隠していたのではないかという。
また、景元は長年痔を患っており、馬での登城が非常に困難となり、幕府に対して駕籠での登城の許可を申請し、受理された文書が残っている。景元の身分では駕籠での登城は許されていなかったため、疾病を理由に申請した。
景元の死後、講談・歌舞伎で基本的な物語のパターンが完成し、陣出達朗の時代小説「遠山の金さんシリーズ」などで普及した。現在では、テレビドラマの影響を受けて名奉行として世に認知され、大岡忠相と人気を二分することもあるが、ドラマのような名裁きをした記録はほとんどない。
ただし、当時から裁判上手だったという評判はあり、名裁判官のイメージの元になったエピソードも存在する。1841(天保12)年8月18日の「公事上聴」(歴代の徳川将軍が一代に一度は行った、三奉行の実際の裁判上覧)において、景元は将軍徳川家慶から裁判ぶりを激賞され、奉行の模範とまで讃えられた。景元が、たびたび水野や鳥居と対立しながらも、矢部のように罷免されなかったのは、この将軍からの「お墨付き」のおかげだと考えられる。景元のこうした「能吏中の能吏」としての名声は、時代が江戸から明治に移っても旧幕臣をはじめとした人々の記憶に残り、景元を主人公とした講談を生み、映画やテレビの時代劇へ継承される大きな要因となったと言えよう。