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  • 9月27日、今日は【高杉晋作、誕生日(1839)】

    更新 : 2011/9/27 21:51

    今日は【高杉晋作、誕生日(1839(天保10)年)】です。

    高杉晋作(たかすぎしんさく)とは、日本の武士(長州藩藩士)。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。諱は春風。通称は晋作。字は暢夫。号は東行。のち、谷 潜蔵と改名。栄典は贈正四位(1891(明治24)年4月8日)。

    高杉晋作は同門の吉田稔麿が称したように、鼻ぐりの無い暴れ牛の如く自由奔放かつ、迅速な行動力と決断力で、幕末動乱の世を疾風の如く駆け抜けた伝説の革命児である。松陰は、「識見気魄他人及ぶなく、人の駕御を受けざる高等の人物なり」と、評した。松陰の死後、晋作は、その比類無き能力を存分に発揮し、倒幕への筋道を築いてゆくのである。


    幕末長州藩の上士の家柄に長子として生まれる。少年時代の高杉は学問よりも剣術に熱中しており、実は柳生新影流免許皆伝の腕前である。とはいえ、同じ藩の桂小五郎同様、人を斬ったという話はない。

    1857(安政4)年の終わり頃から、吉田松陰の松下村塾に入門。しかし師・松陰は高杉を“有識の人”と見込むも、あまり学問を好まず、独善的な解釈をする悪癖を矯正するために、ライバルの久坂を持ち上げて、高杉の競争心を煽ったと言われる。この頃から書物を読み漁り、学問にも真剣に取り組むようになった。

    上海への幕府の視察団には長州藩代表として加わった。上海で列強の食い物にされている清の惨状を目の当たりにした高杉は、たとえ親不孝をしてでも日本を変革するために奔走する決意をする。

    彼は松陰門下の仲間達と御楯隊を結成し、1862(文久2)年12月には英国公使館焼き討ちを決行する。しかし翌年、突如として藩に10年の休暇願いを出し、出家・隠棲して“東行”と号した。が隠棲して半年も経たぬ内に、藩は再び彼を呼び戻す。彼は武士だけで構成される正規軍に対し、下級武士や農民など、身分によらず能力とやる気を重視したゲリラ部隊、奇兵隊を結成した。

    1866(慶応2)年1月21日、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元を仲介として、晋作も桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共に進めていた薩長盟約が京都薩摩藩邸で結ばれる。その後、四境戦争では海軍総督として戦うも、肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、1867年(慶応3)年旧暦4月14日(5月17日)、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去る。享年29。

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