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  • 10月16日、今日は【丹羽長秀、誕生日(1535)】

    更新 : 2011/10/17 22:09

    今日は【丹羽長秀、誕生日(1535(天文4)年)】です。

    丹羽長秀(にわながひで)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田氏の家臣。長秀は信長の養女(信長の兄・織田信広の娘)を妻にしている。また、嫡男の丹羽長重も信長の五女を娶っている。さらに、長秀は信長から「長」の字の偏諱を受け、親しい主従関係であった。二代に渡って信長の姻戚となった例は、他の家臣には一切無いところを見てもわかるように、長秀は信長から「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれるという逸話が残るほど、厚く信頼されていたことがうかがえる。

    信長四天王の一人であり、柴田勝家と並ぶ猛将としても知られ、その武者振りから鬼五郎左と称される。織田家中では、「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があった。木綿(羽柴秀吉)は華美ではないが調法であるのに対し、米五郎左は丹羽長秀を評したもので、非常に器用でどのような任務でもこなし、米のように、上にとっても下にとっても毎日の生活上欠くことのできない存在であるというような意味である。

    方面軍司令の地位こそ得られなかったが安土城の普請奉行などの畿内の行政の仕事をそつなくこなし、また各方面の援軍として補給路の確保や現地の戦後処理において活躍をするなど行政と軍事両面で米五郎左の名に恥じない働きを続け、信長の信頼も変わらなかった。

    清洲会議でも織田家の今後を決める四宿老の1人として参加しているが、この頃の長秀は決して秀吉と対等な立場ではなく、その勢力差は歴然としていた。それを裏付けるように、山崎の戦い後に毛利輝元が秀吉の1家臣である蜂須賀正勝と、立場上は織田家の重臣である丹羽長秀に送った戦勝祝いは贈答品の内容から、付けられた書状の中身まで一言一句同じもので、他大名からも「秀吉の家臣」という認識があったようである。

    秀吉と勝家とが天下を争った一戦である1583(天正11)年の賤ヶ岳の戦いで秀吉を援護し、戦後に若狭国に加え越前国及び加賀二郡を与えられ、123万石の有数の大大名となった。

    1585(天正13)年旧暦4月16日、胃癌のために死去した。享年51。また、異説もあり、一説では織田氏をないがしろにする秀吉の振舞いを見て、信長の恩義に応えることができなかったことを悔いて割腹自殺したという説もある。なお、その際に自ら取り出した内臓、それも病巣を秀吉に送りつけたとも言われている。

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