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10月16日、今日は【陶晴賢、忌日(1555)】
更新 : 2011/10/17 23:48
今日は【陶晴賢、忌日(1555(弘治元)年)】です。
陶晴賢(すえはるかた)とは、戦国時代の武将。周防国の戦国大名大内氏の重臣。武勇に秀で、「西国無双の侍大将」と呼ばれた。
1521(大永元)年、陶興房の次男として生まれる。陶氏は大内氏の庶家・右田氏の分家であり、大内氏の重臣の家柄であった。少年時は美男として知られ、そのため大内義隆の寵童として重用された。
1542(天文11)年に尼子領に侵攻するが、この出雲遠征における月山富田城攻めには失敗し、多数の死傷者を出して大敗した。このため、義隆は軍事面に興味を示さなくなり、文化に傾倒するようになる。このため、文治派として台頭してきた相良武任と武断派の隆房は徹底して対立し、さらに相良武任を重用する義隆とも不仲になってゆく。
1551(天文20)年1月、相良武任は「相良武任申状」を義隆に差し出し、この書状で「陶隆房と内藤興盛が謀反を企てている。さらに対立の責任は杉重矩にある」と讒訴する。これを契機として義隆と隆房の仲は遂に破局を迎え、8月10日には相良武任が周防から出奔してしまったことにより、両者の対立は決定的となった。
8月28日、隆房は遂に挙兵して山口を攻撃し、9月1日には長門大寧寺において義隆を自害に追い込んだ。さらに義隆の嫡男・義尊も殺害した。そして野上房忠に命じて筑前を攻め、相良武任や杉興連らも殺害したのである。
1552(天文21)年、義隆の養子であった大内義長(大友晴英といい、豊後大友氏当主大友宗麟の異母弟)を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。この時隆房は、晴英を君主として迎えることを内外に示すため、陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から一字をもらって、晴賢と名を改めている。
晴賢は直ちに義隆の姉を正室とする吉見正頼の討伐に赴くが、主力軍が石見に集結している隙を突かれて毛利元就によって安芸における大内方の城の大半が陥落、折敷畑の戦いでも大敗してしまう。
1555(弘治元)年旧暦9月21日、晴賢は自ら1万の大軍を率いて、安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした。しかし毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗北し、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した(厳島の戦い)。享年35。なお、晴賢の遺骸は、桜尾城で首実検の後、洞雲寺に葬られた。