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10月27日、今日は【松陰忌(1830)】
更新 : 2011/10/27 18:59
今日は【松陰忌】です。
由来は、長州藩で松下村塾を開き藩士の子弟を教育した吉田松陰(よしだしょういん)の1830(文政13)年の忌日。安政の大獄で捕えられ、この日に処刑された。日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者、地域研究家。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。
幼時の名字は杉。幼名は虎之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。諱は矩方(のりかた)。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられた。
文政13(1830)年8月4日、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834)年6歳の時に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6(1835)年に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。
しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感。西洋兵学を学ぶために嘉永3(1850)年に九州に遊学。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事。
嘉永5(1852)年、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩を脱藩。この東北遊学の後、江戸に帰着後、罪に問われて処分を受けた。
安政元(1854)年にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際に、密航を画策するが失敗し、伝馬町の牢屋敷に送られた。この密航事件に連座して佐久間象山も投獄。その後、助命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚。
安政2(1855)年に出獄を許されたが、杉家に幽閉。安政4(1857)年に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育。
安政5(1858)年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、倒幕を持ちかけ、結果松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚。
やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、安政6年(1859)年10月27日に斬刑。享年30(満29歳没)。生涯独身であった。
処刑後、小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に葬られたが、文久3(1863)年に高杉晋作ら攘夷派の志士達により現在の東京都世田谷区若林に改葬。明治維新後、靖国神社にて維新殉難者として合祀。