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  • 11月8日、今日は【長束正家、忌日(1600)】

    更新 : 2011/11/9 15:33

    今日は【長束正家、忌日(1600(慶長5)年)】です。

    長束正家(ながつかまさいえ)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の五奉行の一人。父は水口盛里(安芸守)といわれる。近江国水口岡山城主。正室は本多忠勝の妹の栄子。弟に直吉らがおり、弟直吉の子孫は浅野家に仕えたという。

    1562(永禄5)年、水口盛里の長男として近江国栗太郡長束村で生まれたといわれる。初め丹羽長秀に仕えたが、1585(天正13)年に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると財政上不正があったと豊臣家より糾弾されたが、正家は帳簿を証拠として提出し、これに抵抗した。この後豊臣氏直参の家臣になった。高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。1586(天正14)年の九州の役・1590(天正18)年小田原の役では兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍し、小田原の役では20万石の兵糧を滞りなく輸送したほか、小田原周辺において米3万石を買占め小田原城を兵糧攻めにした。文禄・慶長の役では肥前名護屋に在陣し兵糧奉行も務めた。

    この間、1586(天正14)年には本多忠勝の妹・栄子を正室に迎え、1589(天正17)年には長男・半右衛門助信が誕生している。1590(天正18)年正月13日には人質として上洛した徳川秀忠の出迎えの任に当たるなど、徳川家との関係も深かった。1595(文禄4)年に近江水口城5万石を拝領し、五奉行の末席に名を連ねる。1597(慶長2)年には12万石に加増され、官位も従四位下侍従に昇任した。

    秀吉没後は石田三成方に与し、家康打倒の謀議に参加するが、家康の伏見城入城を阻止できず、前田玄以と共に家康に会津征伐の中止を嘆願したが聞き入れられないなど、功を奏さなかった。

    1600(慶長5)年に三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山(現・岐阜県不破郡)に布陣し合戦前には浅野隊と南宮神社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退した。正家は松田秀宣の活躍で入城に成功するも、寄せ手の亀井茲矩・池田長吉に本領の安堵を約束されるが城から出たところ欺かれ捕縛された。捕えられた正家は弟直吉と共に家臣奥村左馬助の介錯で切腹した。享年39。首は京都三条橋で晒された。地元古城山の阿迦之宮に霊が祀られる。

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