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  • 11月17日、今日は【九鬼嘉隆、忌日(1600)】

    更新 : 2011/11/22 15:32

    今日は【九鬼嘉隆、忌日(1600(慶長5)年)】です。

    九鬼嘉隆(くきよしたか)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。九鬼水軍を率いた水軍武将であり、九鬼氏の第8代当主である。志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、3万5,000石の禄を得た。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。

    1542(天文11)年、志摩国英虞郡の九鬼泰隆の持ち城である波切城(現・三重県志摩市大王町波切)で、九鬼定隆(泰隆の嫡男)の三男として生まれる。

    1560(永禄3)年、志摩の地頭らが伊勢国司・北畠具教の援助を受けて田城を攻められ、九鬼側は惨敗する。そして嘉隆ら残党は逃亡し、滝川一益の仲介により、桶狭間の戦いを制して勢いに乗る織田信長に仕えたとされる。

    1569(永禄12)年、信長が北畠具教を攻めたとき、嘉隆は水軍を率いて北畠の支城である大淀城を陥落させるなどの活躍をしたため、正式に織田家の家臣団の一員として迎えられた。

    1576(天正4)年、石山本願寺側についた毛利水軍600隻に対し、嘉隆は300隻の船を率い摂津木津川沖で戦ったものの多くの船を焼かれて大敗を喫した(第一次木津川口の戦い)。この敗戦に激怒した信長は、嘉隆に対して燃えない船を造るように命じた。この時に嘉隆が辿り着いた答えが、船に鉄を貼った鉄甲船の建造であった。

    1578(天正6)年、嘉隆の率いる6隻の鉄甲船と、滝川一益の大船が石山本願寺の抵抗を物ともせず、堺の港に入りその力を見せつけた。これに対して石山本願寺は再び毛利氏に援軍を頼み、木津川沖で海戦が行われる(第二次木津川口の戦い)。信長の要望に応えて造られた燃えない鉄甲船の威力は凄まじく、嘉隆は毛利水軍600隻を打ち破ることに成功した。

    1582(天正10)年6月、信長が本能寺の変で死去した後は羽柴秀吉に仕え、信長同様に水軍の頭領として重用された。1597(慶長2)年に家督を子の九鬼守隆に譲って隠居した。

    1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いが起こると嘉隆は西軍に与し、守隆は東軍に与した。これはどちらが敗れても家名を存続させるための嘉隆の戦略だったという。守隆は徳川家康と会見して父の助命を嘆願し、守隆の功績の大きさが考慮され了承されたが、守隆の急使がそれを嘉隆に伝える前に、嘉隆は旧暦10月12日に和具の洞仙庵(どうせんあん)で自害した。享年59。

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