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SHIRAHAMA KEY TERRACE HOTEL SEAMORE ホテルシーモアのお知らせ・ブログ
11月25日、今日は【女性に対する暴力廃絶の国際デー】
更新 : 2011/11/25 19:12
今日は【女性に対する暴力廃絶のための国際デー(International Day for the Elimination of Violence against Women)】です。
由来は、1961(昭和36)年の今日、ドミニカ共和国の政治活動家であったミラバル3姉妹が、ドミニカの支配者ラファエル・トルヒジョの命令により惨殺されたことから、1999(平成11)年12月17日の国連総会で制定された国際デー。
ミラバル姉妹はドミニカ共和国に生まれ、1950年代にラファエル・トルヒーヨの独裁政権に反対した活動家。反対運動に身を投じたのは主に、長女パトリア・メルセデス・ミラバル(Patria Mercedes Mirabal)、三女ミネルバ・アルヘンティーナ・ミラバル(Minerva Argentina Mirabal)、四女アントニア・マリア・テレサ・ミラバル(Antonia Maria Teresa Mirabal)の三人で、次女のベルヒカ・アデラ・「デデ」・ミラバル=レジェス(Belgica Adela "Dede" Mirabal-Reyes)は、反独裁政権運動に積極的に関わっていなかった。
ミラバル姉妹はドミニカの上流層に生まれ、文化的に恵まれた環境で育った。長じては全員が結婚して子供を持った。ミラバル姉妹の父親は成功した事業者であったが、トルヒーヨ政権下で財産のほとんどを失うこととなり、姉妹はトルヒーヨがドミニカ共和国を経済混乱に陥らせていると考えるようになる。中でもミネルバはおじからの影響を強く受け、トルヒーヨの独裁を終わらせることに情熱を燃やすようになり、反トルヒーヨ運動に身を投じた。
その後他の姉妹が彼女の後を追い、「六月十四日運動」として知られる反トルヒーヨ政権グループを形成するに至る。グループ内で彼女達はLas Mariposas(スペイン語で「蝶」の意)と呼ばれた。姉妹のうち2人は幾度も投獄され、拷問を受けた。また、3人の夫全員がラ・ビクトリアに収監された。
このような運動の後退にも屈せず、姉妹はトルヒーヨの独裁政権と戦い続けた。投獄を何度も続けた後、トルヒーヨは姉妹を葬り去ることを決定する。1960(昭和35)年11月25日、姉妹が獄中の夫を訪ねた帰り道に、トルヒーヨの送った一群の男性が彼女達を捕らえた。非武装の姉妹はサトウキビ畑に連れ込まれ、殴打の後絞殺された。
ミラバル姉妹の死は大衆の大きな怒りを招き、その結果彼女達の死の理由について、ドミニカ共和国の人々の目を集めることとなった。このような大衆の意識の変化が、6ヶ月後のトルヒーヨ暗殺の一つのきっかけになった。