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11月30日、今日は【尼子経久、忌日(1541)】
更新 : 2011/12/6 22:50
今日は【尼子経久、忌日(1541(天文10)年)】です。
尼子経久(あまごつねひさ)とは、戦国時代の武将・大名。出雲守護代。北条早雲と並ぶ下剋上の典型であり、毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才とも云われ、「謀聖(ぼうせい)」・「謀将(ぼうしょう)」と称された。経久、元就、直家はよく中国の三大謀将と称される。大河ドラマ「毛利元就」では、経久が鬼のような謀略家とされ、最後には自分の死すら謀略に利用したように描かれた。一方で多面に優れ、文武両道だったという。晩年に自画像を残している。
謀略家としては冷徹であったが、その一方で家臣に対しては非常に気を使う優しい人物であった。経久の人柄を偲ばせる逸話として、『塵塚物語』は、経久は家臣が経久の持ち物を褒めると、たいそう喜んでどんな高価なものでも、すぐにその家臣に与えてしまうため、家臣たちは気を使って、経久の持ち物を褒めず眺めているだけにしたと伝えている。
ある時、ある家臣が庭の松の木なら大丈夫だろう思い、松の枝ぶりをほめたところ、経久はその松を掘り起こして渡そうとしたため、周囲の者が慌てて止めたという。それでも経久は諦めず、とうとう切って薪にして渡したという。世人はもったいないことだ、と話たが、経久は全く気にもしなかったという。また冬には着ている着物を脱いでは家臣に与えてしまったので、薄綿の小袖一枚で過ごしていたとも。『塵塚物語』は経久のことを「天性無欲正直の人」と評している。
なお海外にまで視点を広げれば、同様の二面性を持った人間として、敵には殺戮者・略奪者として恐れられながら、家臣に対しては略奪品の豪華な装身具を気前良く渡して、自分自身は質素な服で過ごしたアッティラの例がある。一方で、見方を変えれば恩賞や物で家臣との関係を保たなければならない、当時の尼子氏の基盤の弱さも伺える。
尼子氏が拠点とした出雲は、その歴史から他国とは異なった統治機構と支配機構で成り立っていた。この為、経久は国造勢力である千家氏・北島氏、国人勢力として最も権力のある宍道氏・塩冶氏との婚姻政策を推し進めたのは、それらを尼子氏の下部組織へと体制化しようとしたものであった。だが、これらが後に嫡孫である晴久と次男国久の対立原因となってしまう。
1541(天文10)年旧暦11月13日、月山富田城内で死去した。享年84(満82歳没)。