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  • 11月30日、今日は【立花ァ千代、忌日(1602)】

    更新 : 2011/12/6 23:09

    今日は【立花ァ千代、忌日(1602(慶長7)年)】です。

    立花ァ千代(たちばなぎんちよ)とは、戦国時代の女性。

    大友氏の有力家臣であった立花道雪(戸次鑑連)の一人娘として誕生。名前に含まれる「ァ」の字は“慎み人の話を聞く”という意味合いを含めて父・立花道雪が名付けた。傅役には、道雪の後妻の仲介を取り持った縁で、城戸豊前守が命じられた。

    1575(天正3)年、7歳の時に家督を譲られた。道雪は娘に家督を継がせるため、通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家である大友家の許しを得た上で、彼女を立花家の当主とした。戦国時代 でもまれな例と言われる。1581(天正9)年、高橋紹運の長男立花宗茂を婿に迎える。豊臣秀吉の命により宗茂が柳川城へ移ると、立花山城の明け渡しに反対して宮永館へ別居、「宮永殿」と呼ばれた。

    父譲りの武勇に長けた姫という話が多く伝わっている。『大友文書』によると、「戸次伯耆守は大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。されど娘ありて勇壮。城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪う」という記述がある。

    宗茂が文禄・慶長の役で不在の間、豊臣秀吉はァ千代を言葉巧みに名護屋城 に呼び寄せ手込めにしようとしたが、それを察知したァ千代はお付きの女中に鉄砲を構えさせて護衛させ、また自らも武装をして乗り込んだ為、それに恐れをなした秀吉は手も足も出なかったとされる。

    関ヶ原の戦いに際しては、鎮西へ撤退してきた宗茂を、家士や従者など数十名を率いて自ら出迎えた。後、加藤清正が宗茂に開城を説得すべく、九州に進軍した折、「街道を進むと、宮永という地を通ることになりますが、ここは立花宗茂夫人の御座所です。柳川の領民は立花家を大変に慕っており、宮永館に軍勢が接近したとあれば、みな武装して攻め寄せてくるでしょう」と聞かされたため、宮永村を迂回して行軍した。

    宗茂が改易されると肥後国玉名郡腹赤村(現・熊本県玉名郡長洲町)に隠居し、わずか2年後にこの世を去った。享年34。

    柳河(現・福岡県柳川市)移転後に宗茂と別居(事実上の離婚)するなど、夫とは不仲であったと言われ、夫婦の間に子供はいなかった。

    1820(文政3)年にはァ千代に瑞玉霊神、夫宗茂に松陰霊神の神号が贈神された。

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