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  • 12月1日、今日は【武田信玄、誕生日(1521)】

    更新 : 2011/12/7 0:40

    今日は【武田信玄、誕生日(1521(大永元)年)】です。

    武田信玄とは、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。

    甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて甲斐武田家の領国を拡大した。晩年、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。享年53。臨終の地点は小山田信茂宛御宿堅物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(現・長野県下伊那郡阿智村)であるとされている。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。

    辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。

    『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。

    江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、また上杉謙信の良き好敵手としての人物像が形成される。

    徳川幕府が成立してから著しく評価を落とされた豊臣秀吉とは対照的に、信玄は「家康公を苦しめ、人間として成長させた武神」として、また武田信玄の手法を家康が参考にした事から、「信玄の神格化=家康の神格化」となるので幕府も信玄人気を容認していたとされる。

    江戸時代には信玄の治世や軍略を中心とした『甲陽軍鑑』が成立し、これを基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。また、一円が幕領支配となった甲斐国においては、大小切税法や甲州金、甲州桝の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、崇められるようになった。

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