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12月5日、今日は【W・A・モーツァルト、忌日(1791)】
更新 : 2011/12/6 12:59
今日は【ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、忌日(1791(寛政3)年)】です。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)とは、ドイツの作曲家、演奏家。古典派音楽の代表であり、ハイドン、ベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人である。称号は神聖ローマ帝国皇室宮廷室内作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長などを勤めた。
1756(宝暦6)年1月27日、ザルツブルクに生まれる。現在はオーストリアの都市であるが、当時は神聖ローマ帝国領であった。父レオポルト・モーツァルトは、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであった。母はアンナ・マリーア・ペルトルで、七番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれた。他の五人は幼児期に死亡し、唯一、四歳上の姉マリーア・アンナだけがいた。なお、祖先の姓はモッツハルト(Motzhardt)。
父レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。3歳のときから クラヴィーア(ピアノの前身)を弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行う。モーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。
1762(宝暦12)年10月13日、シェーンブルン宮殿でマリア・テレジア御前演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはその時手を取った7歳のマリア・アントーニアのちのマリー・アントワネット(マリア・テレジアの娘)にプロポーズしたという逸話がある。
1777(安永5)年、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘アロイジア・ヴェーバーに恋愛し結婚の計画をたてるが、父レオポルドの反対で断念した。1782年26歳のとき、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する。コンスタンツェはかつてモーツァルトが恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、『魔弾の射手』の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉であった。
1791(寛政3)年11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分に35歳の若さでウィーンにて永眠した。
妻・コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、4人は乳幼児のうちに死亡。成人した2人の男子はどちらも子どもを残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫は居ない。