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12月7日、今日は【貧乏人は麦を食え(1950)】
更新 : 2011/12/14 2:43
今日は【池田勇人蔵相が米価問題についての答弁で「貧乏人は麦を食え」と発言し問題化(1950(昭和25)年)】です。
第三次吉田内閣で吉田は一年生議員の池田を大蔵大臣に抜擢して世間を驚かせたが、池田は有能な大蔵官僚であっても政治家としては駆け出しで、発言に脇の甘さが目立った。
1950(昭和25)年12月7日の参議院予算委員会で社会党の木村禧八郎議員が高騰する生産者米価に対する蔵相の所見をただした。この質疑応答を池田は「所得に応じて、所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則に副つたほうへ持って行きたいというのが、私の念願であります」と締めくくったが、これが吉田政権に対して厳しい態度を取っていた新聞を刺激した。翌日の朝刊は「貧乏人は麦を食え」という見出しで池田の発言を紹介、これが池田自身の発言として伝わり、各方面から強い批判を受けることになった。
池田勇人(いけだはやと)とは、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。
広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)に父・池田吾一郎、母・うめの二男として生まれた。父は酒造りと郵便局長をやっていた。生家が造り酒屋というのは、当時の政界進出者の一典型で、地元では素封家ということになる。旧制忠海中学校、旧制第五高等学校を経て京都帝国大学法学部卒業。
高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に佐藤栄作(のちの首相)と同じ宿に泊まり合わせた。池田は忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日5人は酒を飲み大騒ぎして別れたという。
1925(大正14)年に大蔵省へ入省した。入省同期に山際正道などがいる。大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りし、吉田茂の右腕として頭角をあらわし、吉田内閣の経済運営・安全保障政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960(昭和35)年に首相に就任した。
首相としては所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした政治家である。また、19世紀生まれの最後の首相でもある。