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12月15日、今日は【竹千代が今川の人質となる(1549)】
更新 : 2011/12/26 13:37
今日は【竹千代が今川義元の人質として駿府へ出立する(1549(天文18)年)】です。
竹千代(たけちよ)とは、徳川家康(とくがわいえやす)の幼名。徳川家康は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。本姓を、先に藤原氏、次いで源氏と仮冒した。
三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として、1542(天文11)年12月26日寅の刻(午前4時頃)、岡崎城 で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。2歳の頃、水野忠政没後の水野氏当主・水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したため、織田氏と敵対する今川氏の庇護を受けていた広忠は於大を離縁した。そのため竹千代は幼くして母と生き別れになった。
6歳の頃、広忠は織田氏に対抗するため駿河国の今川氏に臣従し、竹千代は今川氏の人質として駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。しかし広忠は今川氏への臣従を貫いたため、竹千代は見捨てられた形となり、殺されてもおかしくなかったが、久松俊勝夫人となった御大の懇願もあったか、そのまま人質として尾張国に留め置かれた。この時に織田信長と知り合ったと言われる。
2年後に広忠は家臣の謀反によって殺害された。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代により支配された。
墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれていたため入れず、二の丸に入った。このとき、鳥居忠吉から松平氏の御家人が今川氏の先鋒、事実上の捨石とされている事情を聞く。また、忠吉が今川氏に内密で備蓄していた武具・兵糧・金銭を見せられ、家康は感涙したという。古老の御家人は、祖父・松平清康によく似ていると感嘆したという。
松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。松平氏の家臣の立場としても走狗として酷使されたこと、また当の竹千代にとっても、今川義元の家臣(孕石元泰)から個人的な虐めを受けるなど忍従の日々であり、今川義元死後に築山殿とも不和になり殺害していることからも伺える。