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12月12日、今日は【一休宗純、忌日(1481)】
更新 : 2011/12/25 1:24
今日は【一休宗純、忌日(1481(文明13)年)】です。
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)とは、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとして知られる。出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする皇胤説が有力視される。
『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けていたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだという。幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号である。
6歳で京都の安国寺の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となり賞賛された。
1410(応永17)年、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。謙翁は1414(応永21)年に没した。この時、一休は師の遷化によるものかは断定できないが、自殺未遂を起こしている。
1415(応永22)年に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指す。
1420(応永27)年のある夜、カラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。
応仁の乱後の1474(文明6)年、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられ、寺には住まなかったが再興に尽力した。塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。
1481(文明13)年、88歳で酬恩庵においてマラリアにより没した。臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わる。酬恩庵は通称「一休寺」と言い、京都府京田辺市の薪地区にある。1456(康正2)年に荒廃していた妙勝寺を一休が再興したものである。墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが宮内庁が御廟所として管理している陵墓であるため、一般の立ち入りや参拝はできない。