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12月13日、今日は【有間皇子、忌日(658)】
更新 : 2011/12/26 1:05
今日は【有間皇子、忌日(658(斉明天皇4)年)】です。
有間皇子(ありまのみこ)とは、孝徳天皇の皇子。母は左大臣・阿倍内麻呂の娘・小足媛。天智天皇の娘、明日香皇女・新田部皇女姉妹とは母方の従兄妹になる。
645(孝徳天皇元)年6月14日(新暦7月12日)に父の孝徳天皇が即位。孝徳天皇は同年646(大化元)年12月9日(新暦1月1日)に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子は653(白雉4)年に都を倭京に戻す事を求めた。孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄は勝手に倭京に移り、皇族達やほとんどの臣下達も中大兄に従って倭京に戻ってしまった。孝徳天皇の皇后である間人皇女でさえも、兄の中大兄に従って倭京に戻ってしまった。失意の中、孝徳天皇は654(白雉5)年10月10日(新暦11月24日)に崩御した。このため、655(斉明天皇元)年1月3日(新暦2月14日)、宝皇女が再び飛鳥板葺宮で斉明天皇として即位した。
父である孝徳天皇の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯(白浜温泉)に行っていた。皇子は飛鳥に帰った後に自分の病気が完治した事を斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は皇子の味方である事を伝えた。皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。
しかしこれは罠であった。蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと思われる。蘇我赤兄が中大兄皇子に密告したため、この謀反計画は露見した。有間皇子は守大石・坂合部薬達と捕らえられ、658(斉明天皇4)年11月9日(新暦12月9日)に中大兄皇子に尋問された。その時、有間皇子は「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」(天與赤兄知。吾全不知)と答えた。有間皇子は、翌々日に藤白坂(現・和歌山県海南市)で絞首刑に処せられた。
有間皇子を偲んで藤白神社の境内には、有間皇子神社が創建された。藤白坂には、
「藤白の み坂を越ゆと 白樽の わが衣手は 濡れにけるかも」(『万葉集』巻9・1675)
という皇子を偲んだものと思しき作者不詳の歌碑も残っている。