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12月14日、今日は【植芝盛平、誕生日(1883)】
更新 : 2011/12/26 3:21
今日は【植芝盛平、誕生日(1883()年)】です。
植芝盛平(うえしばもりへい)とは、日本の武道家。合気道の創始者。合気道界では「開祖」(かいそ)と敬称される。
和歌山県田辺の富裕な農家に生まれた。大東流を初めとする柔術・剣術など各武術の修行成果を、大本教や神道などの研究から得た独自の精神哲学で纏めなおし、『和合』、『万有愛護』等を理念とする合気道を創始した。
身長156pながら大相撲力士を投げ飛ばすなど幾つもの武勇伝で知られ、また老境に至っても多くの“神技”を示し「不世出の達人」と謳われた。太平洋戦争(大東亜戦争)中は軍部に有用性を認められ、陸軍憲兵学校・海軍大学校などで武術指導を行う。
終戦後息子で後継者の植芝吉祥丸と共に合気道の社会普及に務めた。合気道は日本国内だけでなく世界的に大きく広まり、柔道・空手道などに次ぐ国際的武道に育った。盛平の功績は社会的に高く評価され、紫綬褒章、勲三等瑞宝章などの叙勲を受けた。
酒・タバコを嗜むことは無かった。反面甘いもの好きで大福やあんころ餅をよく食べた。道場の建築・修繕などの目的で寄附を受けることはあっても、盛平個人は月謝を受け取ることを頑なに拒んだ。もし持ってくる弟子がいれば神前に供えるよう指示した。
時間に厳しく、列車に乗るときはその便が来る1時間前からホームで待っているのが常だった。また演武大会があるとプログラムもお構いなしに最初から登場して他の弟子の演武時間がなくなることもあったので、弟子たちは道場から演武会場までのタクシーに頼んで遠回りをさせたり、控え室の時計の針を遅らせるなどの時間稼ぎをしていた。
戦前は無頼の輩による悪用を避けるため確かな身元保証人が居なければ入門はおろか見学も許さなかった。もし見学が許された者であっても着流しで来る者や腕組み・胡座をして見学する者は追い出した。
また入門が許された弟子でも盛平の許可無く立ち技や武器技を行うと激しく怒ったという。蹴り技についても「人を足蹴にするのはきたならしい」という考えから一切許さなかった。
男性が初段を允可されないと袴の着用を許されないのに対して、女子は初段前・入門時からでも袴の着用が許される場合がある。これは稽古中に受け身をとって道着がめくれて(あるいは汗で道着が透けて)下着が見えるのを隠すための盛平による配慮に由来する。