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  • 1月2日、今日は【源清麿、忌日(1855)】

    更新 : 2012/1/3 14:22

    今日は【源清麿、忌日(1855(嘉永7)年)】です。

    源清麿(みなもときよまろ)とは、幕末に活躍した刀工である。本名は山浦環(やまうらたまき)。初銘は正行、ついで秀寿。兄は刀工の山浦真雄。水心子正秀、大慶直胤と並び「江戸三作」と称された名工。波乱に富んだ人生を送ったことから、新々刀期の刀工の中でも特に人気が高い。作風は相州伝で刃文は互の目乱れ、または互の目丁子。平地に白髪筋と呼ばれる銀筋が現れるのが特徴。

    窪田清音(くぼたすがね)より「清」の一字をもらう。本来は「すがまろ」と言うが、現在では「きよまろ」で広く名が通っている。

    1813(文化10)年、信州小諸藩赤岩村の名主の次男として生まれ、刀工を目指した兄とともに上田藩工の河村寿隆に刀工の技を学ぶ。武士を志して江戸に上り幕臣の軍学者で剣術家でもある窪田清音の門を叩くが、のちに刀工として評価した清音の後見で作刀に専念する。刀工として名高い清麿だが剣術の腕前も高く、清音の道場では代稽古もつとめていた。

    1842(天保13)年、清音の尽力により一人三両掛け百振りの刀剣講「武器講一百之一」を依頼されるが一振り目を完成させたところで出奔。その年の暮れに長州萩に現れ2年間をすごした後、江戸に戻り清音に罪を詫び、重要美術品に認定されている「(表)為窪田清音君 山浦環源清麿製(裏)弘化丙牛年八月日」の銘がある2尺6寸の豪刀を贈っている。

    四谷北伊賀町(現・東京都新宿区三栄町の一部)に定住したことから「四谷正宗」の異名をとった。先に四谷に住んでいた同じ刀工の固山宗次に挨拶がなかったため、果たし状を送られたと伝えられている。

    1854(嘉永7)年旧暦11月14日、42歳で突如として自害。自害の理由についてはさまざまな説が流れているが、かなりの酒好きだったらしく、酒毒のために作刀ができなくなったことを悲観して自害したという説もある。墓所は新宿区須賀町の宗福寺。

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