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1月21日、今日は【勝海舟、忌日(1899)】
更新 : 2012/1/22 2:36
今日は【勝海舟、忌日(1899(明治32)年)】です。
勝海舟(かつかいしゅう)とは、江戸時代末期の武士(幕臣)、明治初期の政治家。位階勲等は正二位勲一等伯爵。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。
幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦(よしくに)、明治維新後改名して安芳。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝安房(かつあわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あんほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホウ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったものである。海舟という号は元は誰のものであったかは分からないという。父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟に当たる。家紋は丸に剣花菱。
10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ1845(弘化2)年から永井青崖に蘭学を学び、赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。1860(万延元)年には咸臨丸で渡米し、帰国後軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は、参議、海軍卿、その後伯爵、枢密顧問官となり政府の日清戦争に終始反対した。
李鴻章を始めとする清国の政治家を高く評価し、1873(明治6)年には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、同事件では政府の対応を厳しく批判するなど多くの社会事業に携わり、哲学館(現・東洋大学)や専修学校(現・専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。
9歳の頃、狂犬に睾丸を噛まれて70日間生死の境をさまよっている(「夢酔独言」)。このとき父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。これは後も勝のトラウマとなり、犬と出会うと前後を忘れてガタガタ震え出すほどであったという。
1899(明治32)年の今日、風呂上がりにブランデーを飲んですぐに脳溢血により意識不明となり、21日死去。最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。