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  • 1月28日、今日は【ダンスパーティーの日】

    更新 : 2012/1/28 15:18

    今日は【ダンスパーティーの日】です。

    由来は、1883(明治16)年の今日、明治政府が14万5千円をかけて建設した迎賓館「鹿鳴館」がオープンしたことから。煉瓦造りの2階建ての美しい建物は、英国人ジョサイア・コンドルの建設によるもので、外国貴賓の接待や社交の場として毎夜のごとく舞踏会が開催された。

    鹿鳴館(ろくめいかん)とは、外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場である。当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在でもある。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」と呼ぶ。

    計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が前近代的で残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため井上は日本の欧化を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考えた。

    それまでは外国賓客の迎賓館として準備された建物はなく、1870(明治3)年、急遽改修した浜離宮の延遼館かあるいは三田の蜂須賀邸などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣のNBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)の地)に決まり、1880(明治13)年に着手。途中規模変更があり3年がかりで1883(明治16)年7月、落成。設計はお雇い外国人のジョサイア・コンドルである。施工は土木用達組(大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織)が担当した(大倉喜八郎が創立した大倉組商会の建設部門は大成建設株式会社の源流である)。

    煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。バーやビリヤードも設備されていた。

    1890(明治23)年、宮内省に払い下げられ、華族会館が一部を使用。1894(明治27)年6月20日の明治東京地震で被災し、修復後、土地・建物が華族会館に払い下げられた。旧鹿鳴館の建物は1927(昭和2)年、徴兵生命保険(大和生命保険を経て2011(平成23)年現在はプルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険)に売却された後も保存されていたが、1940(昭和15)年に取壊された。

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