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2月21日、今日は【愛姫、忌日(1653)】
更新 : 2012/2/25 1:19
今日は【愛姫、忌日(1653(承応2)年)】です。
愛姫(よしひめ)とは、田村清顕の一人娘で、伊達政宗の正室。母は相馬顕胤の娘・於北。通称は田村御前。院号は陽徳院。
1579(天正7)年に数え年12歳で伊達政宗の元に嫁ぐ。ところが、自分の暗殺未遂事件には、田村氏からの内通者の関与があったと疑った政宗によって、彼女の乳母は殺害される。他、多くの愛姫付きの侍女たちが死罪にされたため、一時、夫婦仲が悪くなったと伝えられている。しかし、その後、夫婦関係は修復に向かったと思われ、彼女が京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、1594(文禄3)年には五郎八姫(松平忠輝室)を出産。それから、忠宗(仙台藩二代藩主)・宗綱・竹松丸と、政宗との間に4人の子をもうけた。
田村家には愛姫以外の子女がいなかったため、政宗との結婚の際、二人の次男を田村家の養子に迎えるという話がついていたが、次男の宗綱は16歳で夭折。後の竹松丸も夭折したため、田村氏の復興は忠宗の三男宗良の代まで待つことになった。
聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、いわば女性外交官的役割で政宗に京の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、よく政宗を内助の功でもって支えていたと思われる。
1636(寛永13)年5月24日に政宗が死去した後、瑞巌寺の雲居禅師の元で仏門に入り、陽徳院と称した。政宗の17回忌前には彼女の命により、木造の政宗像が制作されたが、これは彼の面影を伝える史料として貴重なものである。政宗の肖像画や像は、政宗の遺言に従って両目を入れて作られることになっていたが、この瑞巌寺の木像は「夫の本当の姿を残しておきたい」という愛姫の思いから、独眼となっている。1653(承応2)年1月24日に86歳で死去する。24日は政宗の月命日と同じであった。
墓所は瑞巌寺に隣接する陽徳院。導師の雲居禅師も、愛姫について「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」と、愛姫の人柄について語る言葉を残している。また、瑞巌寺の尼僧姿の愛姫像も美しく、「愛姫=めごい(愛くるしい)姫」の愛称どおりの女性だったようである。一時期はキリシタンでもあったという。