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  • 3月26日、今日は【小笠原信嶺、忌日(1598)】

    更新 : 2012/3/26 22:57

    今日は【小笠原信嶺、忌日(1598(慶長3)年)】です。

    小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

    天文16(1547)年、伊那小笠原氏出身の信濃国松尾城主・小笠原信貴の長男として生まれる。父と同様に武田信玄配下の信濃先方衆として働いた。信玄の死後も引き続き武田勝頼に仕えて、遠江方面の要衝を守っていた。

    しかし、天正10(1582)年、織田信長による武田攻めがはじまると、すぐに信長に降伏して織田軍の道案内役を務めた。同年6月、信長が本能寺の変で死去したため、徳川氏に属し、酒井忠次の家臣として各地を転戦、松尾城などの知行を安堵されるとともに、天正12(1584)年には、元武田家臣の下条頼安を誘殺するなど支配力の強化にも努めた。

    天正18(1590)年に徳川家康が関東に入部した際、武蔵国児玉郡本庄に1万石を与えられ、本庄城主(本庄藩の藩祖)となる。本庄氏時代の城を廃し、久城掘り西側に新たに城を築き、低地である花の木で生活していた住民を台地へ移住させ、新しい町造りを開始した。

    翌年の天正19(1591)年には、夫人の兄である甲斐国永岳寺の救山宗温禅和尚を迎え、自らが開基となり、畳秀山の開善寺を本庄宿の中宿に建立した。

    豊臣秀吉の朝鮮出兵時には九州まで出向いている。伏見城の築城工事の際には人足200人を引率した。慶長3年(1598)年2月19日、江戸で死去。享年52。家督は養嗣子の小笠原信之(三河国出身で酒井忠次の三男)が継いだ。

    写真は小笠原信嶺が建立した開善寺(埼玉県本庄市中央)にある小笠原信嶺夫妻の墓。夫妻の墓は円墳の上に造られています。

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