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  • 5月16日、今日は【武田義統、忌日(1567)】

    更新 : 2012/5/17 15:27

    今日は【武田義統、忌日(1567(永禄10)年)】です。

    武田義統(たけだよしずみ)とは、若狭の守護大名・戦国大名。若狭武田氏の当主。初名は義元。

    大永6(1526)年、武田信豊の長男として生まれる。
    天文17(1548)年、室町幕府12代将軍・足利義晴の娘(足利義輝・義昭の妹)を正室に迎えた。

    弘治2(1556)年、弟の武田信方を擁立する重臣粟屋勝久と争い、勝久を追放して勝利した。
    永禄元(1558)年には父信豊を近江に追放して実質的に家督を継いだ。その後も父との対立は絶えず、また、粟屋勝久など被官達の反乱も続いた。

    永禄4(1561)年には重臣の逸見昌経が反乱を起こす。逸見氏の水軍を自身の編成した水軍で打ち破るなどの戦果も挙げたが、昌経が隣国丹波の松永長頼の支援を受けていたこともあり独力で鎮圧することはできなかった。このため越前の朝倉義景の援助を受けて鎮圧に成功するが、若狭に朝倉氏の影響力が強まる一因を成した。

    永禄8(1565)年に義兄に当たる13代将軍・足利義輝が松永久秀らに暗殺され(永禄の変)、義輝の弟である義秋(義昭)が自身の将軍就任への協力を求めて永禄9(1566)年に若狭を訪れた。若狭武田氏は偏諱や婚姻などを通じて交流するなど、足利将軍家から格別な信頼を受けていたが、義統はこの頃内乱のために若狭から出兵することができなかった。そこで義統は実弟の武田信景を室町将軍家に出仕させることとした。後に信景は備後国の鞆に下向した義昭に同行し、亡命幕府内で活躍することとなる。

    永禄10年旧暦4月8日(1567年5月15日)に死去。享年42。ただし異説として11月9日に死去したとも伝えられる。更に『高野山過去帳』によれば、天正8(1580)年4月8日を没日とする記述がある。

    家督は子の元明が継いだが、逸見氏・粟屋氏などの反乱はおさまることがなく、若狭武田氏の統治は一向に安定しなかった。義統の死の翌年には朝倉義景が若狭に出兵し、武力で平定、元明は一乗谷に定住することを促され、朝倉氏の保護下に置かれた。

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