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5月27日、今日は【日本海海戦の日】
更新 : 2012/5/27 17:45
今日は【日本海海戦の日】です。
由来は、1905(明治38)年の今日、日本海海戦で東郷平八郎が率いる日本艦隊が、ロシアのバルチック艦隊に対して大勝利を収めたことから。後に「東郷ターン」と呼ばれる丁字型陣形をとり、敵艦に対して一斉射撃をして大勝利を収めた。【海軍記念日】ともいう。東郷平八郎は、指揮能力、統率能力も秀でた名将で、最前線で敵の動向に瞬時に対応する陣頭指揮を行いつつ、自分が戦死した後の速やかな指揮権継承を保障するなどの繊細な指揮をとった。
日本海海戦(にほんかいかいせん)とは、日露戦争中に行われた海戦である。日本以外ではこれを対馬沖海戦(つしまおきかいせん)と呼ぶ。ただし実際の海戦域は対馬沖に留まらず日本海広域に及ぶ。この海戦は日本海軍の連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊との間で戦われた。日本海軍連合艦隊は司令長官東郷平八郎の指揮下で、ロシア海軍両艦隊を撃滅し戦力の大半を失わせたが、日本海軍連合艦隊の損失は軽微という海戦史上まれな一方的勝利となった。これにより両国間のポーツマス講和会議への道を開いた。当時、世界最大の軍事力を有していたロシア帝国の敗北は世界を驚愕させた。なお日本では上記のロシア海軍両艦隊を指して「バルチック艦隊」と呼ぶことが定着している。
バルチック艦隊は戦力の大半を一回の海戦で失った。損害は被撃沈16隻(戦艦6隻、他10隻)、自沈5隻、被拿捕6隻。他に6隻が中立国へ逃亡し、ウラジオストクへ到達したのは3隻(巡洋艦「アルマース」、駆逐艦「ブラーヴイ」、駆逐艦「グローズヌイ」)のみであった。兵員の損害は戦死4830名、捕虜6106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては史上稀に見る一方的勝利となった。
当時鎖国が解けてから50年ほどしか経っておらず、植民地もない新進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせた。また海戦の結果、極東海域における日本海軍の制海権が確定した。ロシア軍にとっては、満州で対峙する日本軍の補給を断つことで戦争に勝利できる可能性が消滅した。1905年3月の奉天会戦でロシア陸軍主力の撃滅に失敗した日本にとって、海戦での決定的勝利は和平交渉の糸口となり、ポーツマス講和会議への道を開くことになる。