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6月3日、今日は【真田幸村、忌日(1615)】
更新 : 2012/6/5 1:37
1615年(慶長20年5月7日) - 真田信繁(幸村)、大坂の役豊臣方の武将(* 1567年)
真田 信繁 (さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。永禄10年(1567年)とされる生年は没年齢の49歳から逆算されたもので、月日は不明。
武田信玄の家臣であった真田幸隆の孫。大坂の役で大活躍し、特に大坂夏の陣では寡兵を持って徳川家康本陣まで攻め込み、徳川家康を後一歩のところまで追いつめた。
江戸期以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将真田幸村(さなだ ゆきむら)として取り上げられ、広く一般に知られることになった。
現在では「真田幸村」の名で広く知られているが、信繁直筆の書状を始め、信繁が生きていた同時代の史料で「幸村」の名が使われているものは見つかっていない。従って実在の人物の名としては「信繁」が正しい。
「幸村」の名が見られるようになったのは江戸時代で、寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』がその初出であると考えられる。その『難波戦記』が人気を博し、広く読まれたため「信繁」ではなく「幸村」とすることのほうが一般的となったと言えるであろう。時代が下るにつれ「幸村」の名があまりにも普遍化してしまったため、幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史にまで「幸村」が採用されている。
「幸」は真田家(厳密には真田家の本家にあたる海野家)の通字であり、「村」については信繁の姉の村松や、信繁の子孫が仕えた伊達家当主の伊達綱村、徳川家を呪ったとされる妖刀村正に由来しているとする説がある。
「幸村」という名は信繁の死後100年以内で広まっているため、真田昌幸の死後に昌幸の片諱を継承して実際に「幸村」と名乗ったのではないかとの推測もあるものの、現在のところ「幸村」という名が記された史料は見つかっておらず、立証されていない。また、夏の陣での死の二ヶ月前に「幸村」と改名したという説もあるが、大坂冬の陣と大坂夏の陣の半ばの慶長20年2月に叔父にあてた手紙や兄・姉にあてた手紙にも「信繁」と記されており、こちらも史料による裏づけはない。