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  • 6月3日、今日は【岡田以蔵、忌日(1865)】

    更新 : 2012/6/5 1:39

    今日は【岡田以蔵、忌日(1865(慶応元)年旧暦5月11日)】です。

    岡田以蔵(おかだいぞう)とは、江戸時代末期の土佐藩郷士。「人斬り以蔵」と呼ばれた。

    『土佐偉人伝』(寺石正路)では「性質は剛勇で武技を好み、非常に逞しい体躯を持った巨漢であった」としている。もっとも同書は皇国史観に伴って幕末勤皇志士が持てはやされた1921(大正10)年に記された本であり、いささか美化された感もあると言われる。土佐の牢番には「歯の反った奴」と述べられている。性格は粗く酒色を好んで身を持ち崩したともされている。

    香美郡岩村(現・南国市)に二十石六斗四升五合の郷士・岡田義平の長男として生まれる。弟に同じく勤王党に加わった岡田啓吉がいる。1848(嘉永元)年、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために父・義平が藩の足軽として徴募され、そのまま城下の七軒町に住むようになり、以蔵自身はこの足軽の身分を継いでいる。

    武市瑞山(半平太)に師事し小野派一刀流剣術を学ぶ。1856(安政3)年9月、武市に従い江戸に出て、鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ。翌年、土佐に帰る。

    1860(万延元)年、武市に従って中国、九州で武術修行する。その途中、豊後岡藩で武市と別れ、以蔵のみ岡藩にとどまり直指流剣術を学ぶ。1861(文久元)年、江戸に出て、翌年土佐に帰る。その後、武市の結成した土佐勤王党に加盟。しかし、なぜか後に名簿から削られている。

    土佐藩下目付けの井上佐市郎をはじめ、同志の本間精一郎や池内大学、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、長野主膳(安政の大獄を指揮した)の愛人・村山加寿江の子・多田帯刀などを天誅と称して暗殺(村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた)。世間からは「人斬り以蔵」と呼ばれ薩摩藩の田中新兵衛と共に恐れられた。

    八月十八日の政変後、土佐勤王党は失速。1864(元治元)年6月頃、無宿者として幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、同時に土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送される。土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺に関して土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられ、上士・武市瑞山を除いて厳しく拷問された。以蔵は拷問に屈し、自分の罪状及び天誅に関与した同志の名を白状し、1865(慶応元)年5月11日に打ち首、晒し首となった。辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき」。

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