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11月27日、今日は【徳川吉宗、誕生日(1684)】
更新 : 2014/11/30 17:12
今日は【徳川吉宗、誕生日(1684(貞享元)年)】です。
徳川吉宗(とくがわよしむね)とは、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主をつとめた。徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の流れの徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。
この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれ、江戸時代を代表する名君の一人とされる。
吉宗は、新井白石らの手による「正徳の治」で行われた法令のほとんどを廃止した。ただし、正しいと考えた方針には理解を示し廃止しなかった。一方で幕府創設者である徳川家康と並んで幕政改革に熱心であった第5代将軍・綱吉を尊敬し、綱吉が定めた「生類憐みの令」を即日廃止した第6代将軍・家宣を批判したと言われる。江戸幕府の基本政策である治水や埋め立て、町場の整備の一環として飛鳥山や墨田川堤などへ桜の植樹をしたことでも知られる。
自ら質素倹約に努め、着物は木綿に限定、食事は朝夕の2回のみとし、献立も「一汁三菜」とした。家臣が華美な服装をしていると、一切返答せず、じっとその服装に目を注いで暗に注意を促した。
前例にならって華美な様式で行われる予定だった家継の葬儀の様式を、吉宗は全て改めた。用意されていた棺や装飾を破棄し、質素なものに作り替えさせた。
江戸城の経費削減のために大奥の女性を50名ほど解雇する必要が生じた際、吉宗はあえて美女だけを解雇し、容貌の良くない者を大奥に残した。美女だけを解雇した理由について、吉宗本人は「美女であれば他に働き口も多く、良い縁談もあるから」と語ったという。