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鳥取歴史こぼれ話 「大阪豪商淀屋の真実」
更新 : 2013/11/2 9:56
歴史に名を残す大阪の豪商「淀屋」
この名前を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか?
現在もその名前は地名として残っています。それは「淀屋橋」
淀屋は全国の米相場の基準となる米市を設立し、江戸時代の大坂で繁栄を極めました。
その財力は凄まじく諸大名や武士達に現在の価格で約100兆円もの貸付を行っていたとされており、当時の武家社会に大きく影響を及ぼしたとされています。
そんな強大な力を持った淀屋を当時の幕府は見逃さず、淀屋を潰しにかかるのです。
財産は「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」という理由で無慈悲に没収され、大阪淀屋は衰退していったのでした。
ところが。。。。。
四代 淀屋重當はこのような流れを先読んでいたのです。
淀屋を途切れさせぬよう、重當は当時の番頭 牧田仁右衛門 に暖簾分けをし、牧田を出身地の倉吉に返しました。
その時の取り決めは、
其の一、主家の血を絶やさない。
其の二、大坂に旗を掲げる。
其の三、けっして突出しない。
五代 淀屋廣當の代になり、ついに幕府は淀屋潰しを始めました。
すでに帰郷していた、牧田仁右衛門は本家の衰退する状況を知りつつも、じっと耐え「淀屋」の名を隠し、再興の準備を進めていました。
そして時は過ぎ、牧田仁右衛門は倉吉で着々と力を蓄え、ついには「淀屋」の名を掲げ、大阪の地に商売を広げ「淀屋」を里帰りさせたのでした。
現在にも「倉吉淀屋」であった建物は市内最古の町屋建築として残っています。
牧田家の菩提寺にあたる浄土宗の古刹・大蓮寺(倉吉市)の境内には「大坂・淀屋清兵衛」の文字が入った古い石塔もあり、所以を物語っています。
周辺は倉吉の観光スポット「白壁土蔵群」、こんな物語を思いながら足を運ばれるとまた、一風変わった「旅」が楽しめるのではないでしょうか。
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