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こぼらさんの静岡県の旅行記

浜松城と井伊家ゆかりの井伊谷

  • 家族(親と)
  • 6人〜9人
  • 温泉
  • 芸術・文化
  • 史跡・歴史
  • 自然
  • グルメ

1年ぶりに親子孫3世代6人で家族旅行。6人まとまっての旅になると、行きたい所がまとまらず、なかなか大変です。去年は彦根城が最終訪問先だったので、井伊家つながりで奥浜名湖・井伊谷に行きました。自分の歴史好き趣味を出し過ぎた感じもあります。 大河ドラマ「おんな城主直虎」放映から1年以上が経過しましたが、ご当地の直虎人気は衰えていませんでした。ドラマの準主役となっていた徳川家康にとって出世のきっかけとなった浜松城にも行きました。 でも家族には、うなぎパイファクトリーや竜ヶ岩洞(りゅうがしどう)といった、わかりやすい場所がお気に入りだったようです。

三重ツウ こぼらさん 男性 / 60代

1日目2018年10月25日(木)

浜名湖サービスエリア

浜松市北区

「浜名湖サービスエリア」を   >

東名高速上りで静岡に入ると、すぐにあるサービスエリアです。いつも思いますが、とても広い敷地というか、だだっ広く感じるSAです。そこに点在するようにいくつかの建物があり、それぞれに食事処やレストランが入っています。うなぎ専門店が何軒かある一方で、イートインのような簡易な所もあり、どこで食事をしたものか迷ってしまいます。

浜名湖近鉄レストラン

浜松市北区

「浜名湖近鉄レストラン」を   >

浜名湖サービスエリアは広大で、飲食店もたくさんあります。車から降りた直後は、どこで食事をしようかと思いを馳せるのですが、広々とした場所でゆったりと食事をしたいと考えると、結局ここになってしまいます。中には、うなぎ専門の浜名亭とファミリーレストラン風の「湖の見えるレストラン」が隣り合わせに入っています。

浜名亭で浜名湖名物のうなぎを食べようと考えていたのですが、浜名亭うな重の値段を見て怯んでしまいました。うな重(松)だと、6名分で3万円以上かかってしまうし、私が払わなければなりませんでしたから。 それで、お代が半分くらいで済みそうな「湖の見えるレストラン」にしました。無難で味もそこそこ満足できます。

湖の見えるレストラン

浜松市北区

「湖の見えるレストラン」を   >

お昼時に行きましたので、本当に浜名湖が見える席は先客でふさがっていました。まして、こちらは6名なので小さなテーブル席では間に合わず、中の方の6人掛けテーブルに通されました。 湖の見えるテーブルは、ごく限られていました。窓辺のテーブルであってもレースカーテンが下ろされていて、結局は浜名湖は見えません。ガラス窓が大きいので、カーテンを開ければ日射しが射し込み、暑くて困ってしまうでしょう。

うなぎ丼(上)。お隣の浜名亭に比べると、お安い分、見た目もそれなりになっています。肝心の味の方は悪くありませんでした。

家内がチョイスした海鮮丼。これはこれで美味しそう。

浜松城

浜松市中区

「浜松城」を   >

平成26年3月に復元されたばかりの天守門。真っ白でピカピカという印象です。西日の射し込みで、鉄砲狭間が白く浮き上がっています。 門は新しいですが石垣は「往時のもの」だそうです。

徳川家康が関東に移封された後、豊臣家の家臣であった堀尾氏が築いた石垣。野面積みと呼ばれる、荒削りな石垣です。 徳川の世になった後に築かれた城では、手や足をかけようもない位に隙間なく積み上げられているのに比べ、結構ラフに感じます。でも、こう見えて400年以上その姿を保っているのだから凄い。

浜松城天守閣

浜松市中区

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天守閣も再建ですが、天守門と同様に、石垣は往時のものだそうです。でも、往時とはどの時代の事を言っているのだろうかと思いました。 家康の居城だった頃は、石垣はなく土盛りの土台に築かれていたようです。 その後で築造された天守は、現在の復元版よりもひとまわり大きかったそうです。今に残る野面積みの石垣は、大きな天守が構築された際に組まれたようです。江戸時代に入って天守が失われても再建されず、城主が頻繁に入れ替わったので、石垣と天守台だけ残ったようです。

浜松城

浜松市中区

「浜松城」を   >

現在の復元版天守は、石垣に比べて小さいです。かつてあった天守は、ひとまわり大きかったそうです。 でも、その大きな天守と石垣は豊臣方によって構築されたそうです。それで、天守の外壁は黒いのですね。徳川方の天守ならば、姫路城のように外壁が白いはずです。家康の出世城とは言いながら、豊臣仕様の黒い外壁で復元されているのが面白いですね。

浜松城天守閣

浜松市中区

「浜松城天守閣」を   >

天守閣の中には、気味が悪い位にリアルな徳川家康像が陳列されています。世界的な特殊メイク専門家JIRO氏の制作だそうです。 これを見るだけでも、入場料を払って天守閣に入る価値があります。

合戦指揮をとる家康の、厳しいまなざしや引き締まった口元、髪や髭の生え際がとてもリアルです。大河ドラマ「おんな城主直虎」では、阿部サダヲさんが家康を好演していましたが、これは誰がモデルになったんでしょうね。

浜松城

浜松市中区

「浜松城」を   >

天守閣の最上階から見下ろすと、発掘調査が行われているのが見えました。8月1日から11月上旬にかけて、浜松市による第24次天守曲輪の発掘調査の真っ最中でした。 土の中から石垣が姿を現していました。安土桃山時代に構築されたとみられる石垣の上端部だということです。瓦も大量に埋もれているようです。 掘れば何かが出てくるのだなと興奮して見入ってしまい、気が付けば周囲に家族は誰もいませんでした。早々に階段を降りて、他の展示物を見に行っていました。

浜松城公園

浜松市中区

「浜松城公園」を   >

浜松市役所の横から見た浜松城。天下泰平になった17世紀には、天守閣は失われていましたが再建されることはなく、天守門が浜松城で最も高い建物になっていたのだそうです。この角度から見ると、天守門が大きな建物である事がわかります。

浜松城公園

浜松市中区

「浜松城公園」を   >

浜松城公園を歩いていると、市で歴史ゾーン整備計画が立てられていて、浜松城に櫓や土塀を復元し建て増そうとしている事を説明しているパネルがありました。完成イメージ図を見ると、石垣や櫓そして土塀を追加して城郭らしい姿になるようです。天守曲輪で見た発掘調査は、どのように石垣や櫓を復元するのかを決めるために実施していたのですね。 何年か後に、ぜひ採訪したいものです。

右側の「出世法師・直虎ちゃん」の顔は、大河ドラマの柴咲コウさんそのものですね。虎の耳としっぽが可愛い。持っている錫杖も、よく見たらウナギじゃないですか!あっはっは!! 「出世大名・家康くん」も面白い。髷がウナギで、袴は鍵盤、家紋は三ヶ日みかんの断面。浜松らしいですね。 この二人のキャラクターによって、浜松の観光開発が促進されていくなら、偉大な存在ですね。

家康公松鎧掛松

浜松市中区

「家康公松鎧掛松」を   >

三方原の戦いに敗れ、命からがら浜松城に逃げ帰った家康が馬から降りて鎧を掛けたとされる松。3代目だそうです。もし当時の松が残っていたら、老いた巨木だったことでしょう。 植わっていた場所も、今の場所ではなく堀の傍だったそうです。

今の松は、昭和56年に地元・元城町の人たちによって植樹されたものです。

うなぎパイファクトリー

浜松市西区

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観光で(物見遊山で)、工場見学するのを歓迎してくれます。団体は別として、個人なら予約なしの飛び込みでも受け付けてもらえます。定休日がありませんし、入場料無料というのも嬉しいです。入場ご褒美?に、うなぎパイが2本もらえて童心にも帰れます。

玄関から入り受付を済ませると、製造工程をのぞきこめるガラス窓の方へ誘導されます。大きな壁に小さな窓があるだけなので殺風景に感じますが、これは演出なのだと後で気付きます。 最初の窓からは、焼く前の細長い生地(魚肉ソーセージみたいな形です)が見えます。次の窓で見ると、お馴染みの形状に焼き上がったパイになっています。2つの窓の間に、うなぎの蒲焼きみたいな平べったい形にプレスして焼き上げる工程があるのでしょうが、そこは企業秘密で非公開になっています。 「工場見学なのに、こんな小さな窓からしか見られないの?」と見学者を焦らせようとする演出なのです。2階に上がると様子が一変します。

一番奥の窓は大きくて、次々と焼き上がってくるパイが形状検査を受ける工程が見られます。形状検査は、やはり人間がしているのですね。

2階に上がると、包装と梱包作業工程が見られます。この段階となると、いかにもベルトコンベアーのあるファクトリーそのものです。

うなぎパイカフェ

浜松市西区

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2階の工場見学スペースを過ぎた所に、うなぎパイカフェがあります。家内と娘は、工場見学はそこそこに切り上げ、カフェに急ぎ足で入っていきました。何を食べるのか考えるためだそうです。 確かに、わくわくさせる雰囲気のカフェです。きっと、ここを目当てにリピート利用しているお客さんは多いことでしょう。

高級カフェのように、落ち着いた雰囲気です。でも天井の円い照明のまわりを飾っているのは、うなぎパイ(シリコン製の模型)だと気付くと、思わずプッと笑えてしまいました。 だって、ゴージャスな内装の落ち着いた雰囲気のカフェの一角に、うなぎパイがすまし顔で居るようなものですから。

うなぎパイのミルフィーユ仕立て+ドリンクセット(アイス静岡茶をチョイス)。

うなぎパイカフェ

浜松市西区

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うなぎパイのミルフィーユ仕立ては、秋なので栗とモンブランがベースになっていました。うなぎパイは、ジェラートや栗ペースト、練乳にも合いますね。ドリンクセットで1,050円はリーズナブル。

春華堂 カフェサロン

浜松市西区

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うなぎパイの工場見学も楽しいのですが、このカフェでスイーツを食べるのを目的に、リピート来場しそうです。でも、自宅でうなぎパイをさらに美味しく味わえる盛り付け方やコツを教えて頂いていると考えることもできますね。

ホテルグリーンプラザ浜名湖

「ホテルグリーンプラザ浜名湖」を   >

ホテルの真ん前が浜名湖。桟橋が設けられていて、湖面の中に歩いていけます。宿泊したのは4階で、眺めが良かった。バイキング料理のレパートリーが豊富で、どれも美味しい。あとでホームページを見たら、「料理が自慢」とアピールしていました。ごもっともです。

2日目2018年10月26日(金)

ホテルグリーンプラザ浜名湖

「ホテルグリーンプラザ浜名湖」を   >

バルコニーからの朝の眺め。東名高速の浜名湖大橋が良く見えます。このホテルから、奥浜名湖・気賀・井伊谷へは車で数分の距離です。大浴場で朝風呂を楽しみ、10時近くまでゆっくり過ごしてから出発しました。

気賀関所

浜松市北区

「気賀関所」を   >

気賀関は、江戸幕府が東海道の三大関所の一つとして設けた関所です。 気賀という地名を知ったのは、大河ドラマ「おんな城主直虎」によってでした。浜名湖の水上交易によって栄えた土地として描かれていました。 でも水上交通の要衝であるということは、浜名湖を船で移動する人たちを監視するのも容易であるため、関所が設けられたようです。浜名湖の北側を通る本坂通(姫街道)を監視する役割もあったようで、東海道の表街道(浜名湖の南側)に設けられた新居関所ともども、江戸と上方を往来する者たちを監視していました。

関所の中には、通行人あらための役人の人形が置かれています。面白い張り紙がありました。この人形たちが着ている着物が、平成30年3月始めに更新されたというのです。この復元版気賀関所がオープンしたのは平成2年だったそうですから、人形たちは28年間も同じ衣装を着ていたことになります。これも大河ドラマ効果なのでしょうか。

気賀関所

浜松市北区

「気賀関所」を   >

関所の母屋よりも、門の方が凝った造りになっています。さすが東海道の三大関所の一つだった気賀関所だと実感できます。 この復元版の気賀関所は、平成2年のふるさと創生事業で旧細江町が建設しました。国がどの市町村にも等しく1億円を配り、何に使っても良かった事業でした。 たとえ関所や門であっても、いったんは失われていたものを復元し観光資源とする事にお金を使った旧細江町は立派だったと思います。

奥浜名湖田園空間博物館総合案内所

浜松市北区

「奥浜名湖田園空間博物館総合案内所」を   >

気賀関所の隣にあります。博物館とは表示されていますが、実際は地元の農産物直売所になっていました。おそらく、もともとは東海道の三大関所の一つだった気賀関所を紹介する施設だったのでしょうが、大河ドラマ「おんな城主直虎」効果で井伊家とその足跡を紹介するようになったのでしょう。

「博物館」の隅っこに気賀の名所や歴史を紹介するパネルや展示がありました。でも、それを覆うように販売コーナーが展開していました。 大河ドラマ効果か、天井には井伊家の家紋・橘があしらわれた大きな暖簾が広げられていました。ここなら目立つし、販売コーナーの邪魔にはなりませんね。

細江公園

浜松市北区

「細江公園」を   >

奥浜名湖と気賀の町並みの眺望が良い公園と聞いていましたが、樹木が伸びてしまい、絶景は見られませんでした。三ヶ日みかんがモチーフのベンチがかわいい。 桜の季節が一番の公園でしょうね。10月なのに、季節はずれの桜が花をつけていました。地面に落ちた花びらを見るのは4月上旬以来で、妙に懐かしく感じました。

公園は尾根の部分に整備されています。これに対し、文学の丘は斜面に設けられており、展望台や駐車場からは山道を歩いて下ります。

細江公園展望台

浜松市北区

「細江公園展望台」を   >

公園内の散策路を奥へ進んでいくと、真っ白で大きな展望台があります。よく手入れもされていて立派です。奥浜名湖と気賀の町並みを一望できる展望台です。

屋上も結構広い。細江公園には、曲がりくねった上り坂を車で上がってきたので、家族達は少々まいったようです。展望台の屋上で、全員で景色を眺めながらストレッチ体操をしました。それ位、広い展望台です。

陣座ヶ谷古墳

浜松市北区

「陣座ヶ谷古墳」を   >

細江公園展望台から見た陣座ヶ谷古墳。5世紀後半(古墳時代中期)に造営された前方後円墳とのことです。 でも墳丘の上は樹木が生い茂り、展望台の案内表示を読まないと古墳だとは気付きません。まして前方後円墳だとはわかりません。各地の古墳も似た状態になっていますが、もう少し何とかできないものですかね。 道路が古墳を迂回しているのがわかりますか?古墳を潰さないように配慮されたようです。実際に、大正時代に発掘調査したら祟りがあって埋め戻したという話も残っています。

龍潭寺(静岡県浜松市)

浜松市北区

「龍潭寺(静岡県浜松市)」を   >

臨済宗妙心寺派・万松山龍潭寺。8世紀前半に行基が開山したと伝わる古刹。平安時代以降、井伊家の菩提寺となってきたそうです。 この周辺は井伊谷(いいのや)と呼ばれ、龍潭寺は尼僧となった直虎が起居していた場所だったので、大河「おんな城主直虎」ゆかりの地として一番相応しい場所と言えるかもしれません。国指定名勝の庭園も有名です。

山門は、龍潭寺では2番目に古い建物だそうで、江戸時代前期(1656年)に再建されたとのこと。趣があります。 山号額は「萬松山」と書かれており、朝鮮通信使を務めていた僧侶が井伊家のために書いたもの。

本堂の南に仁王門があります。怖い形相の仁王像がおられます。裏側には阿吽の狛犬一対がいます。表に仁王像、裏に狛犬というのは珍しいです。 この仁王門は案外新しくて、昭和の終わり頃の建立だそうです。

龍潭寺(静岡県浜松市)

浜松市北区

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開山堂。龍潭寺歴代住職のお位牌(御霊)を祀る堂です。元禄15年(1702年)の建立といわれ、朱塗りの楼閣造りが見事です。堂のてっぺんには、井伊氏の家紋・彦根橘があしらわれています。

龍潭寺(静岡県浜松市)

浜松市北区

「龍潭寺(静岡県浜松市)」を   >

井伊家墓所の前に並んでみえるお地蔵さん。麦わら帽子が何とも可愛らしい。 私たち一行に付いて見所を紹介してくれたボランティアガイドさんに、じゃらんの旅行記の事を話したら、このお地蔵さんを是非加えて紹介して欲しいと頼まれました。 地元の人たちに大層気に入られているお地蔵さんたちです。

灯籠の奥に5基並んでいる墓に眠っているのは、おんな城主直虎でお馴染みの方々です。奥から、直盛(直虎の父)・直虎・直親・直親の奥方・直政の順に並んでいます。

龍潭寺庭園

浜松市北区

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小堀遠州作の庭園。昭和11年に国の名勝記念物に指定されており、東海一の名園と言われています。テープのリピート再生ですが、庭園についての詳しい解説が聴けて学習できます。例えば、この庭園は「池泉観賞式庭園」と分類されるのですが、この意味を学ぶことができます。また、作庭者・小堀遠州が非常に緻密な検討をふまえて、庭を愛でる人たちを楽しませようと設計していたかも学べます。

この寺が確かに井伊家の菩提寺だと実感できるのが、庫裏の奥に設けられた藩主専用の御殿と書院。毛せんが敷いてある床の間に井伊直弼はじめ歴代藩主が座り、庭園を愛で、御霊屋のご先祖様を遙拝していたといいます。

庭園に一番近い場所に書院はあります。ガラス窓があったりして、現代風に改修されていますが、庭園に溶け込んでいて風情があります。

龍潭寺庭園

浜松市北区

「龍潭寺庭園」を   >

井伊家の歴代当主が、書院から庭園を見ると、こういう光景になっていました。写真の左側に歴代当主の位牌を祀る御霊屋がありますが、補修工事中でした。歴代当主たちは庭園越しに御霊屋を遙拝し、先祖の御霊を安んじていたのでしょう。

曳馬路

浜松市北区

「曳馬路」を   >

龍潭寺駐車場の通り向かいにあるそば処です。隣には、同じ曳馬路という名前のうなぎ専門店があります。建物は一続きのようなので、オーナーさんが同じなのでしょう。 曳馬(ひくま)の意味を店員さんに尋ねましたが、読み方は教えてもらえましたが、意味はわからないとのことでした。後で調べたら、浜松城の別名が曳馬城なんですね。ということは、井伊谷と浜松とを結ぶ街道を曳馬路と呼ぶのでしょうか。地元の人たちには当たり前すぎて、教えてもらえなかったのでしょう。

天ぷら・ざるそば。そばが2段重ねになっていました。龍潭寺の境内を結構歩き回り、小汗をかいていましたので冷たい蕎麦がとても美味しかった。

竜ヶ岩洞

浜松市北区

「竜ヶ岩洞」を   >

竜ヶ岩洞と書いて、りゅうがしどうと読みます。岩を「し」と読むのが不思議なのですが、この鍾乳洞がある山は昔から「竜ヶ石山(りゅうがしやま)」と呼ばれてきたことが語源。鍾乳洞のオープンにあたり、開発者が重々しい響きになるのを狙って、「石」を「岩」に差し替えたのだそうです。 洞窟とは言っても、中を見れば明らかに鍾乳洞です。それも東海地方最大規模らしいです。総延長は1,000mもあるらしいですが、公開されているのは400mほど。しかもルートは、中でUの字になっていますから片道200mといった感じです。ルートは階段によって上下しますので、体感ではもっと長く感じます。

竜ヶ岩洞

浜松市北区

「竜ヶ岩洞」を   >

洞窟の入口。愛嬌のある竜のモニュメントが迎え入れてくれます。竜の目が定期的に光り、口からは湯気が吐き出されるようになっていました。 同行した子供二人は20代後半ですが、鍾乳洞に入るのは初めてということで、はしゃいでいました。入場料(1名1,000円)も出してくれました。子供が小さい頃、仕事に追われていたとはいえ、こうした場所に連れてこなかった自分が恥ずかしく思いました。 入口から入ってすぐの場所では、鍾乳石は余り大した事はありません。奥に行くほど、立派になっていきます。クライマックスとして落差30mの滝がありますが、水量が少なく力抜けしましたが、地中に巨大な空間がある事に驚きました。

鍾乳洞では照明によるカラー演出が命。大滝の滝壺は、水中が青色にライトアップされていて神秘的。円谷プロの特撮映画の世界に来ているような気がします。

竜ヶ岩洞洞窟資料館

浜松市北区

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鍾乳洞めぐりを終えて出口に至ると、この資料館を通過するようになっています。 実はこの竜ヶ岩洞は、一般公開され始めてから35年しか経っていません。それも個人によって開発された観光スポットなのです。 地元・引佐に観光資源をもたらしたいと願っていた実業家・戸田貞雄氏が、私財をなげうって竜ヶ石山を買い取り、自らも手堀り調査に加わり発見された鍾乳洞です。 1981年に戸田氏と協力者の3人だけで行われた洞内調査や、その後の公開用ルート開発工事には大変な苦労があったという事で、写真やジオラマで再現展示されています。

【「この下にはきっと花があるはずだ。」戸田貞雄翁は荒れ果てた採石場に立ち、そう思った。】という書き出しで始まる、開発者・戸田氏のレリーフ。 もともとはコンクリート原料の石灰岩の採石場であったが、工場が撤退し荒れ果てていた竜ヶ石山を買い取った戸田氏の思いです。こんなに大規模な鍾乳洞があるとは、氏も思っていなかったことでしょう。 一個人の強い思いと執念によって開発された鍾乳洞ですので、資料館で来場者に伝えていきたいのでしょう。

方広寺(奥山半僧坊)

浜松市北区

「方広寺(奥山半僧坊)」を   >

深奥山(じんのうざん)方広萬寿禅寺。臨済宗方広寺派の大本山。とても広い境内は、60ヘクタールにも及ぶそうです。写真は三重塔付近から見下ろしたところです。 とても大きな本堂と、参道の一部である赤い「亀背橋」が、ひときわ目立っています。

立派な山門。本堂に行く経路は二つあります。一つは、この山門をくぐって数百メートルを歩いて進むコース。もう一つは、車で境内を大きく迂回し、三重塔近くのゲートから入り本堂の近くまで一気に進むコース。 私たちは、午後4時の最終入場時刻ぎりぎりの到着だったので二手に分かれ、年寄りを乗せた車チームは三重塔へ、家内と子供たち3人は参道を歩くことにしました。

方広寺(奥山半僧坊)

浜松市北区

「方広寺(奥山半僧坊)」を   >

とても大きな本堂。間口32m・奥行27mで、東海地方屈指の寺院建造物です。明治38年から大正7年にかけて建立されました。斜面というか、段差のある場所に建立されているので、手前の回廊部分は高床構造になっています。これによって、豪壮な雰囲気が増しています。

本堂中央の大額「深奥山」は、山岡鉄舟の書とのこと。畳3枚分はあろうかという大きさです。 鉄舟は書家として知られていますが、幕末期の幕臣きっての剣豪としても、維新後の政治家としても歴史に名を残しています。丸みを帯びた字で、味のある揮毫ですね。

本堂の中も広い。さすが臨済宗方広寺派の大本山です。ここで座禅研修もさせてもらえるそうです。 御本尊は釈迦三尊像で、国の重要文化財です。釈迦三尊像の足元には効果照明が取り付けられてあるらしく、まばゆいばかりの金色に輝いていました。

方広寺(奥山半僧坊)

浜松市北区

「方広寺(奥山半僧坊)」を   >

半僧坊真殿。ここに祀られている半僧坊は、方広寺を守護する権現様。いわば鎮守社の神殿ですが、真殿と呼ばれているのが面白い。 明治14年の大火では方広寺の塔堂の多くが焼失しましたが、半僧坊大権現を祀っていた堂は焼けなかったそうです。これを受けて、三河の工匠によって今の立派な真殿が建立されたといいいます。 方広寺と半僧坊本殿とは並び称せられますが、半僧坊本殿とはここを指していたのですね。外見は寺院のよに見えますが、権現造りの社殿であるとのこと。

半僧坊大権現の解説パネル。 方広寺を開創したのは、後醍醐天皇の皇子の無文元選禅師(1371年)。禅師は中国天台山(元)に修行に行っていたが、帰国の際に船が大嵐に見舞われました。いまにも難破しそうな船に半僧坊は現れ、無事に船を博多港に導きました。半僧坊は、帰国した禅師が方広寺を開創すると再び現れ、禅師の弟子にして欲しいと懇願したそうです。その際の出で立ちが、僧侶の姿をしていたものの髪が伸び放題だったので、半僧坊と呼ばれます。 禅師の許しを得た半僧坊は、禅師仕え修行に励み、禅師亡き後は方広寺の守護神となったそうです。 これにより半僧坊大権現と呼ばれるようになり、災難除けの御利益がある神様として崇められるようになりました。

五百羅漢(静岡県浜松市)

浜松市北区

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五百羅漢像は、方広寺境内や参道の至る所で見る事ができます。写真は、本堂の裏側にある五百羅漢像群。回廊を通りながら、一体一体の姿や表情を拝見できます。

一体の大きさは30〜40cmほどですが、この通り顔つきや表情が豊かです。また同じ形・表情の羅漢像はありません。

方広寺(奥山半僧坊)

浜松市北区

「方広寺(奥山半僧坊)」を   >

美しい三重塔。大正期の建立とのことですが、事情を知らない限り、そうは見えません。この塔は、京都の篤志家・山口玄洞氏が寄付し建立したものです。 「倒産よけの塔」と呼ばれ、全国から財界関係者が参拝に来る場所になっているそうです。山口氏は大阪で商売をしていて、第1次大戦の戦争景気で大いに財をなしたそうです。当時の管長・英宗老師の忠告に従い、景気の良い時期に商売を手控えたそうです。大戦が終結し不況となり、全国あちこちで破産・倒産が相次ぐ中、老師の忠告に従った山口氏は倒産せずに済んだどころか、社業が発展したそうです。 なんか、背景が現代になっているだけで、おとぎ話そのものの展開です。そういう話が、現代でもあるのですね。

浜松城と井伊家ゆかりの井伊谷

1日目の旅ルート

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