Shotaさんの兵庫県〜鹿児島県の旅行記
萩から小倉城、大宰府、佐賀城址、名護屋城址、長崎、島原城、熊本城、阿蘇、天草、知覧、飫肥城址、高千穂峡、岡城址、瑠璃光寺、姫路城、神戸と欲張った
- 1日目2019年12月28日(土)
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17:00-18:00
萩・佐々並 道の駅「あさひ」
マグマと維新の町、佐々並市。東名・名神・中国道をひた走り、シラス台地を抜けて、やっとここまでたどり着いた。
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19:00-23:00
萩ロイヤルインテリジェントホテル
東萩駅のロータリー内にあるビジネスホテル。広い浴場で長旅の疲れを癒した。 走行距離 740 キロ。
- 2日目2019年12月29日(日)
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07:00-08:00
萩城は1604年、関ケ原の戦い西軍の総大将毛利輝元が、周防・長門の二か国に減封され、広島城に代わって築城。1863年、山口に藩庁を移すまで藩政の中心であった。
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07:00-08:00
萩城石垣
萩城本丸付近に残る、角度の違う石垣。この他、堀や長屋が残っており、城跡は指月公園として整備されている。
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08:00-08:00
1870年のキリシタン弾圧政策により、長崎浦上村の信徒3,800人の内、約300人が萩に流刑。殉教の死を遂げた信徒たちを偲んで1891年、ビリヨン神父が記念碑を建立した。
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08:00-08:00
1718年、長州藩第五代藩主、毛利吉元が創建。水戸の弘道館、岡山の閑谷黌と並んで、日本三大学府と称された。吉田松陰、井上馨、桂小五郎、高杉晋作、乃木希典らが学んだ。
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08:00-09:00
1842年、叔父玉木文之進が開いた塾を、1857年、藩校明倫館塾頭であった吉田松陰が引き継いだ。この塾は武士や町民など身分の隔てなく受け入れた。
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08:00-09:00
松陰 幽閉室
松下村塾の講義室の並びに松陰が幽閉されていた部屋も残されている。塾を含め、それほど大きな建物ではなく、この建物を中心に松陰神社が建てられている。
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11:00-11:00
小倉城は1569年、毛利勝信により築城。後、1602年から細川忠興が唐造りの天守閣を築いたとされる。天守は1959年に再建。宮本武蔵とのゆかりもある。
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14:00-15:00
919年、菅原道真を祭神として建立された。当初は「道真の祟り」を鎮める為であったが、後に、道真が学問に優れていたため「学問の神」としても信仰されるようになった。
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16:00-16:00
基肄城址
基肄(きい)城は665年に築かれたことが『日本書紀』に記されている。亡命百済人による建設と伝わる。土塁、石塁などが残り、城域一帯は現在スキー場になっている。
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16:00-16:00
717年、行基によって開かれた天台宗の寺院。本尊は行基の作と伝わる十一面観世音菩薩。本堂の裏山には5万本のツツジが植えられており、「つつじ寺」別名がある。
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16:00-17:00
弥生時代の大規模な環濠集落を中心に、国が管理する歴史公園になっている。遺構や出土品から中国大陸、朝鮮半島、南西諸島などとの共通性、類似性が見られることから、あるいは大和朝廷成立以前の痕跡などを知りうる手掛かりがあるのではないか。
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19:00-23:00
ホテルグランスパアベニュー
朝倉市甘木のビジネスホテル。かけ流しの天然温泉でゆっくりくつろいだ。 走行距離 253 キロ。
- 3日目2019年12月30日(月)
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08:00-09:00
善導寺は1191年、弁長により開山、筑後国司草野永平による創建と伝わる。切妻造四脚の大門は1651年建立。時代を感じさせる。
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08:00-09:00
善導寺大楠
この樹は善導寺開山の鎮西聖光(弁長)により植えられたと伝わる。樹齢800年を数え、寺のシンボルとなっている。
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09:00-09:00
室町時代の後期(1504-1521年)にこの地域の土豪が篠原城と称する砦を築いたのが始まりとされる。後に毛利氏、田中氏らが城主となった。石垣と堀が残る。
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10:00-10:00
佐賀城は1602年、鍋島直茂・勝茂により築城。鯱の門、櫓、石垣、土塁などが残っており、城域は佐賀城公園として整備されている。
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10:00-10:00
天保期の建物である鍋島直正の居室「御座間」が、復元に伴い御殿一番奥の本来の位置に戻された。現在、歴史館として公開されている。
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12:00-13:00
1608年、寺沢広高によって築かれた。築城にあたっては、秀吉の死後廃城となっていた名護屋城の遺材を用い、九州各地の大名の助力を得たと伝わる。模擬天守、復元櫓、門、石垣、堀などがある。
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13:00-14:00
1591年、豊臣秀吉が文禄の役に備えて築かせた広大な城の址。170,000平方メートルにわたり、周囲約3キロメートル内に120カ所ほどの陣屋が置かれたという。秀吉に召集された武将たちの配置図を見ていると、後の関ケ原の陣容と繋がってくる。
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16:00-16:00
1599年、松浦鎮信により築城。東シナ海警備の役割を担った。現在は再建された天守、櫓があるが、丁度補修工事中であった。城域に平戸を訪れた山頭火の句碑がある。
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19:00-19:00
1597年2月5日、豊臣秀吉の命により磔の刑に処されたキリシタンの記念碑。右は日本二十六聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会。設計はガウディの研究者でもあった今井兼次。
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20:00-23:00
ホテルルートイン諫早インター
九州自動車道「諫早インター」から約2分のビジネスホテル。大浴場で疲れを取った。 走行距離 361 キロ。
- 4日目2019年12月31日(火)
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07:00-07:00
島原城は1624年、松倉重政により築城。有明海に臨み、雲仙岳の麓に建つ。破風を持たない五重五階構造。キリシタンや藩政時代の資料を展示する歴史資料館になっている。
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08:00-09:00
島原と熊本を運行時間30分で結ぶ。料金は運転者込みで3,980円。晴れ渡ってはいなかったが、ちょっとした海の旅を楽しんだ。
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10:00-11:00
中世(1469-1487年)に築かれた千葉城(出田秀信)、隅本城(鹿子木親員)が始まり。1600年、加藤清正による天守が完成する。2016年に受けた熊本地震のダメージを着々と克服しつつある。
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10:00-11:00
熊本地震の傷跡
復旧作業が鋭意進められてはいるが、広い城域の随所にまだ傷跡は残っている。
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13:00-14:00
阿蘇大観峰
阿蘇北外輪山の最高峰。標高935.9メートル。この日は気温が零度、おまけに強風にあおられて立っているのがやっとのあり様。「大観峰」の名は徳富蘇峰の命名。
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15:00-15:00
『続日本記』に麹智(きくち)城修復の記事は見られるが、築城主、時期については不明。八角形の鼓楼や出土品から、百済からの亡命者の関与が窺えるとのこと。
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18:00-23:00
天草プラザホテル
天草市のビジネスホテル。残念ながら温泉も大浴場もない。 走行距離 280 キロ。
- 5日目2020年1月1日(水)
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06:00-07:00
崎津天主堂
1934年、かつてキリシタンに絵踏 (えぶみ) が行われた庄屋宅 (吉田家) 跡に建てられた。ゴシック様式だが、手前二間は鉄筋コンクリート製、奥三間が木造で、室内は畳敷きである。
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06:00-07:00
朝靄の崎津集落
2018年、崎津集落は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産に登録。ずいぶん長い間、迫害・差別を受け、蹂躙されながらもキリスト教信仰をつないできた人たちはどんな思いなんだろうか。そんなこととは関わりなく、いつものように立ち上る朝靄は、信徒たちの祈りのように思えた。
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07:00-08:00
大江天主堂
1933年、フランス人宣教師ガルニエ神父が地元信者と協力して建立。訪れたのは元日の朝。丘の上にある教会に地元の信徒と思しき方々が、三々五々坂を登ってこられた。割り方広い会堂が老若男女の信徒で埋まった七時半、奏楽が始まった。ああ、こうして信仰を受け継ぎ、しっかりと地に根をおろして生きて来られたのだな、と実感した。
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09:00-10:00
牛深フェリー
牛深と対岸の蔵之元を約30分で結ぶ。料金は運転手込みで2,830円。こちらは熊本フェリーより距離は短いが、クラシックで少し時間がかかる。
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11:00-11:00
薩摩焼陶芸家の窯元。現在当主は第15代目。始祖は慶尚北道青松群の青松沈氏の家系で、慶長の役の際(1598年)、島津義弘によって朝鮮国から連行された「被虜人」のひとりである。
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11:00-11:00
沈寿官窯
工房前の庭に『故郷忘じがたく候』の碑がある。ずいぶん以前にラジオで、14代沈寿官氏が「今の人たちはこの前の戦争の『恨』を言うが、私には400年の『恨』がある」と語っていたのが忘れられない。司馬遼太郎はその思いを取材してこの作品を書いた。
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13:00-13:00
1601年、島津忠恒により築城。77万石の大家ながら、天守も重曹櫓もない屋形造りの城郭であった。領内の拠点に城郭様の武家屋敷を配して、「麓」と呼ばれる外城制を維持していたという。
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14:00-14:00
知覧城址
初めて知覧に城を構えたのは平安時代末期の郡司・知覧忠信と伝わる。室町時代には島津忠宗の三男・佐多忠光が領主となる。曲輪や空堀が残っている。
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15:00-16:00
第二次世界大戦末期に編成された、大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料館。決して戦争を肯定するものではないが、数々の遺影、遺書を前にして、怒・惜・哀などの入り混じった不思議な感情がこみ上げてくるのを禁じえなかった。
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15:00-16:00
館内に展示されている零戦
零式艦上戦闘機五二型丙(実機)薩摩川内市の甑島沖約500メートル、水深約35メートルに沈んでいたものを引き上げて修復したもの。(撮影可)
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15:00-16:00
遺詠
齢23歳で逝った、小林敏男氏の遺詠(『魂魄の記録』より)。 「国救い得ざれば嗚呼如何にせん」という言葉が胸に迫る。
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15:00-16:00
館内展示
展示されている1,036名の遺影(館パンフレット)。第二次大戦の戦死者(軍人)は210万人とも230万人ともいわれる。戦争は二度と再びあってはならない。
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19:00-23:00
ホテル AZ 宮崎田野店
宮崎自動車道 田野インターより約3分のビジネスホテル。温泉も大浴場もない。 走行距離 409 キロ。
- 6日目2020年1月2日(木)
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08:00-09:00
飫肥城は南北朝時代に、宇佐八幡宮の神官であった土持氏が築城したのが始まりとか。その後、鎌倉時代には新納氏、戦国時代は伊東市が城主となった。石垣が残り、櫓門などは再建。城下には武家屋敷が多く残っている。
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08:00-09:00
19世紀初めの建築と推定される武家屋敷が改修・復元されて残っている。枯山水の庭園と共に質素ではあるがきわめて丁寧に造られており、往時を偲ばせる。
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10:00-10:00
14世紀半ば、伊東氏の一族、田島休助によって田島城として建てられた。1427年、伊東祐賀が入城し、佐土原氏を名乗ったことから佐土原城と呼ばれるようになったという。
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13:00-14:00
綾城は1331-1334年、足利尊氏の家臣、細川小四郎義門が築いたとされる。その後、伊東氏の支城、島津氏の支城となった。現在の模擬天守は日本城郭協会の調査に基づいて構築されたものであり、必ずしも再現ではない。それでも木造でよく造られている。
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15:00-15:00
1600年、島津義弘が築城。関ケ原からの敗走途中、日向伊東氏の攻撃を受けた義弘は直ちに天ヶ城を築き、比志島国定を初代城主とした。模擬天守は歴史民俗資料館になっている。
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17:00-18:00
阿蘇山の噴火による火砕流が凝固した溶結凝灰岩を、五ヶ瀬川が侵食し再びV字峡谷となったもの。確かに美しい。しかし、立ち話をしたリチャードさん曰く「strange fake light (おかしなニセモノの照明)はないほうがいいね」。サンセイ !!!
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19:00-23:00
ホテル AZ 宮崎北日向店
日豊本線日向市駅より約5分の所にあるビジネスホテル。やはり温泉も大浴場もなし。 走行距離 382 キロ。
- 7日目2020年1月3日(金)
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07:00-08:00
1603年、高橋元種による築城とされるが、それ以前に土持氏の館があったという説も…。この城は、ある石を外すと全壊し、千人の敵兵を倒すことが出来るという「千人殺し」の石垣で知られる。
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09:00-10:00
佐伯城址
1606年、毛利高政により築かれた山城。三の丸櫓門、石垣が残る。移築された御殿は「城下町佐伯 国木田独歩館」になっている。
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11:00-13:00
伝承では、1185年に緒方惟義が源頼朝に追われた義経を迎えるために築いたという。標高325メートル。城域は東西2,500メートル、南北362メートルと実に広大。目が眩むような断崖と石垣に囲まれた、天然の要害である。残っている石垣が実に見事。
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11:00-13:00
岡城石垣
大手門の石垣。城域全体を取り囲んでいるだけでなく、随所にさまざまな工夫を凝らした石垣が残されている。石の組み方を見て回るのも一興。
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11:00-13:00
岡城址の滝廉太郎像
幼少期を竹田で過ごし、この城址で「荒城の月」の着想を得たという、滝廉太郎の像が二の丸跡にある。
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13:00-14:00
1562年、前身「丹生島城」を大友宗麟が築城。城のある丹生島は周囲を海で囲まれ、干潮時、西に現れる干潟で陸地と繋がるという天然の要害。石垣、曲輪、堀が残っている。
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15:00-15:00
1597年、福原直高により築城。爾来、この城を中心に府内と呼ばれる市街が形成され、現在に至っている。石垣、土塀、堀、櫓、天守台などが残る。天守を模ったイルミネーションの骨組みが残っていた。
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17:00-17:00
1588年、黒田孝高(如水)によって築かれた。堀に海水が引き込まれている水城。今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つ。石垣、堀が残っており、天守は模擬、櫓は復興。
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21:00-23:00
ホテルアルファーワン山口インター
中国自動車道 山口インターより約1分。大浴場でゆっくり疲れを取った。 走行距離 466 キロ。
- 8日目2020年1月4日(土)
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08:00-08:00
1360年頃、大内氏による建築と伝わるが定かではない。京を模した山口の街にふさわしく、「館」として建てられた。そのため、詰の城として背後に高嶺城がある。
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09:00-09:00
室町時代、大内義弘が香積寺を建立したのが始まり。香積寺は毛利輝元が萩に引寺した。五重塔は1442年頃完成。大内文化の最高傑作といわれ、醍醐寺、法隆寺のものと並び称せられるほどである。屋根は檜皮葺で質実堅牢な趣き。
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10:00-10:00
山口藩庁址
1864年、萩から山口へ藩庁が移転した際に建てられた「山口政事堂」の正門。切妻造、本瓦葺きの「薬医門」の形状。山口県庁の側にある。
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10:00-11:00
1556年、大内義長により築城開始。大内氏滅亡後、毛利元就が完成した。標高338メートルの鴻ノ峰にある山城で、主郭付近まで登るのはなかなかタイヘンであった。
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21:00-23:00
ホテルクラウンヒルズ姫路
姫路バイパス姫路南インターより約3分。大浴場があるのでゆっくり疲れをほぐした。 走行距離 403 キロ。
- 9日目2020年1月5日(日)
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10:00-10:00
1346年、赤松貞範による築城が始まりではあるが、現在のような城郭を整えたのは池田輝政である。1601年から8年かけた大改修であった。何度見ても良い !
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11:00-11:00
御着城址
1519年、姫路城代であった小寺政隆により築城。この時代は御着城を本城、姫路城を支城としていたようである。小寺孝隆、後の黒田官兵衛が家老を務めていたこともあった。
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12:00-12:00
加古川城址
加古川城は1221年ごろ、糟屋有教による築城。鎌倉時代には播磨守護所であり、守護代の糟屋氏が在城した。現在は称名寺になっている。
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12:00-13:00
枝吉城址
枝吉城については、1429年前後、地域の地頭であった明石氏が築いたのではないかとされるが明確ではない。本丸跡は現在、神本神社になっている。
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14:00-14:00
兵庫城址
1581年、池田恒興による築城。兵庫は海陸交通の要衝ではあるが、城として機能していた期間は短い。大阪城落城後は兵庫津奉行所が置かれ、明治に入って初代の兵庫県庁となった。
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15:00-15:00
1868年に神戸港が開港、外国人居留地が設けられたが、清国との間には通商条約が結ばれていなかったため、華僑は居留地内に住むことを許されず、西隣に住み始めたのが始まり。
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15:00-15:00
神戸外国人居留地
外国人居留地68番館の門柱。安政五カ国条約に基づいて、当時の神戸村に設けられた外国人居留地の一角。現在はランボルギーニの代理店が入っている。
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16:00-16:00
1905年、旧居留地に外国人向けの高級借家として建設され、大正年間に北野町に移建された。後にドイツ人 R. ハリヤーの住居となった。
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16:00-16:00
1904年、ドイツ人貿易商の住宅として建てられた。重厚なレンガ造りの外観と屋根の上の風見鶏が特徴であり「風見鶏の館」と呼ばれる。
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16:00-16:00
1903年、アメリカ合衆国総領事ハンター・シャープの邸宅として建てられた。典型的なコロニアル様式の建築であり、装飾の基本はバロック様式で比較的軽快な印象。
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17:00-17:00
フロインドリーブ
ホリデー・シーズンのフロインドリーブ。神戸に来るとここに寄らないわけにはいかない。 ハードトーストとモーンプルンダーを求めて帰路についた。
萩から小倉城、大宰府、佐賀城址、名護屋城址、長崎、島原城、熊本城、阿蘇、天草、知覧、飫肥城址、高千穂峡、岡城址、瑠璃光寺、姫路城、神戸と欲張った
1日目の旅ルート
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