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メタボ大王さんの長野県の旅行記

明科廃寺は安曇族の氏寺か〜安曇族の行方を追って〜

  • 友人
  • 3人〜5人
  • 史跡・歴史
  • 自然

金印で有名な福岡県志賀島(しかのしま)を発祥とする海人族の安曇族が全国に散り信濃の安曇郡にも来たとされる。しかし、信濃に来た安曇族は地名として残しただけで安曇氏も九州らしい痕跡も残さず消えてしまった。古代安曇郡の二つの式内社、北安曇郡池田町の川会神社と安曇野市の穂高神社などを巡りながら安曇族の痕跡を追ってみた。安曇族が何故信濃に来たのかそのルートも含め諸説があるが、「磐井の乱」(527)に加担し逃げて来た説は、安曇族の古墳と見られる穂高古墳群が7世紀初めから造られており合う。大町地方には既に高句麗系の渡来人とみられる古墳群があり、犀川、万水川、穂高川、高瀬川が合流する川会の地で地元の蝦夷を排除するしかなかったよう。ここで馬・麻の生産、鮭漁で得た経済力で安曇氏の氏寺として長野県下初の古代寺院「明科廃寺」(7C後半)を建立したと見られている。ちなみに日本書紀には推古32年(624)「阿曇連が法頭(ほうず)」に任命されており、朝廷でも重用される経済力を得ていた。

長野ツウ メタボ大王さん 男性 / 70代

1日目2018年2月18日(日)

有明山

安曇野市

「有明山」を   >

古代安曇族の聖なる山有明山。信濃富士、安曇富士とも呼ばれる。有明山もこの山と姨捨十三景にもある。古来歌が詠まれており、後鳥羽院は「かたしきの衣手寒くしくれつゝ有明山にかゝるしら雲」と「過きぬるか有明の嶺のほとゝきすもの思うときもいとやはせん」と二首を残している。平安末期には安曇地方でも荘園が造られており後鳥羽院の所領もあったのか。また、西行法師は「信濃なる有明山を西にみて心細野の道をいそぎぬ」と、松川村細野と旅する心情をかけて詠んでいる。優美な姿だが、修験の場所でもあった険しい登山道と同じく、幾多の伝説を残している。左手の木立は安曇族の創建とみられる川会神社の社叢である。

川会神社

北安曇郡池田町会染の「川会神社」参道。左手の堤防が高瀬川の堤防。約10q上流の高瀬川と木崎湖から流れる農具川の合流地点にあったものが移動したよう。河岸段丘の上に移動すればいいのに、何故川を下ったのか。そして、何故高瀬川の川の側に祀るのか。

川会神社鳥居。「会」は旧字の「會」。延喜式内社は安曇郡に二社。穂高神社とこの川会神社。更級郡が11社、水内郡9社に比べると非常に少ない。遅れて開発されたことがわかる。当時はほとんど部族の社であり安曇郡の二社は安曇族が創建したものであろうし、郡の名前も付けられたのだろう。「延喜式内」の文字が小さい社額であるが、石造りの立派な鳥居である。江戸時代では十日市場村375戸が氏子との記録がある。

川会神社拝殿。かつては高瀬川の河川敷であっただろう、境内は砂地だ。数百年の樹齢はあるだろう杉の社叢が社を護っている。

川会神社由緒。祭神は「底津綿津見命」。綿津見三神の内一つだけを奉ずる。古代、安曇地方に広大な湖があり、高瀬川と農具川の合流付近にいた川会神社を奉ずる安曇族は、開拓等により湖が縮小する度に下流に移動したのではないかとの説がある。穂高神社を奉ずる安曇族が牧場、犬養部の安曇族に対し、川会神社を奉ずる人々は最後まで高瀬川とともに移動していたよう。「坂上田村麻呂がこの神社に陣を張り中房の鬼賊を退治し、社殿を改築云々」と記されているが、仁科氏がらみで仁科神明宮、筑摩神社などに伝えられている物語で史実ではないよう。仁科氏は木崎湖畔が出自ともいわれ「仁科神社」「阿部神社」がある。古代阿部氏は安曇(阿曇)族との説もあり、川会神社を奉じた海神族の中から仁科氏が出て、平安時代末期には安曇全体を支配するまでになったのかもしれない。信濃木崎駅から西に1q付近にある「新郷1号古墳」という安曇地方には只一つの積石塚古墳や小熊山東南麓古墳群があり、安曇族より以前に高句麗系などの渡来人が入っていた可能性もあり仁科氏の祖ともみられる。

境内前に民話「日光泉小太郎」ゆかりの里碑。新しいもの。松本・安曇地方に伝わる犀川の開拓の民話。広大だったこの地の湖を山清路の崖を削り犀川として長野まで開けた伝説。この碑では、高梨の竜神白竜を父に諏訪湖大明神の化身で有明湖(安曇郡)の竜神犀竜を母にして鉢伏山で生まれた泉小太郎が、放光寺(松本蟻ヶ崎)で成長し、母と再会、母に促され背中に跨がり山清路の崖を削り越後までの川筋を開く。この石碑には後日談が掲載されており、小太郎はこの地十日市場に住んでいたが、「私は千手観音の生まれ変わりである。この里が繁盛するよう護りましょう」と言って一族の者に別れを告げ仏崎の岩穴へ隠れたと。人々はお宮を建立し泉小太郎を祭神として祀り、これが川会神社だと。神社の新たな由緒としているが、神社の役割は地域の融和であり、先祖の開拓の労苦が伝わればいいのでは。

江戸時代後期の国学者、内山 真弓(うちやま まゆみ)の歌碑。残念ながらよく読めない。

内山真弓歌碑説明文。地元の学問所の俊英が京都、江戸に出て活躍。歌人の香川景樹に学んだ。ちなみに作家志茂田景樹さんのペンネームはこの歌人から。江戸時代、寺子屋が全国でも一番多かったといわれる信濃は、国学では太宰春台、洋学では佐久間象山などを輩出した。

川会神社境内社。左から秋葉社、大神宮、諏訪社、戸隠社、八幡社、天満宮。

有明山

安曇野市

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この山は有明山であるが、川会神社の「泉小太郎の碑」にはこの地に「有明の湖(うみ)」があったとしている。九州から来た海人族:安曇族にとって「有明の湖」とは有明海に他ならない。有明海はかつてはもっと広かったが、筑後川などの土砂が堆積し、海が後退している。九州の八女地方にいた磐井氏は、磐井の乱に敗れ屯倉を明け渡し許されたとされるが、磐井の乱に加担して信濃に逃亡したともされる安曇族は、この地の湿地帯のような湖を「有明湖」としその山を有明山としたのではないか。その後、朝廷側となった安曇族は「岩戸伝説」の有明山神社を創建したのではないか。最後まで川と共にあった。高瀬川が氾濫する度に湖が埋まり現在地まで来たのではないか。高瀬川に三つのダムができるまではアルプスの冷たい水と洪水が度々大町地方を襲っただろうし、ここを開拓した仁科氏の功績は大きい。今は大町、安曇地方は県内有数の田園地帯となっているが、江戸時代までは筑摩郡とともに石高が少なく、アルプスから流れる夏でも凍るような水では稲も育たなかったに違いない。

鉢伏山

川会神社付近から見る鉢伏山。この山の向こうは信濃の海「諏訪湖」だ。諏訪神タケミナカタが「宗像(ムナカタ)」の海人族とすれば出雲から逃げ諏訪に落ち着き、一方安曇族は湿地帯であった安曇に定着したのでは。日光泉小太郎が生まれた場所が鉢伏山とするのも安曇の海人族からは諏訪湖が命の再生場所でもあり、冬至の日の出方向であった。

穂高神社

安曇野市

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穂高神社(ほたかじんじゃ)。式内社(名神大社)本宮(里宮)のほか上高地に奥宮、奥穂高岳山頂に嶺宮がある。主祭神:中殿:穂高見命(ほたかみのみこと)、 別名を「宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)」。綿津見命の子。左殿:綿津見命(わたつみのみこと)。海神で安曇氏の祖神。右殿:瓊々杵命(ににぎのみこと)。別宮:天照大御神(あまてらすおおみかみ)。若宮:安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)若宮相殿:信濃中将(しなのちゅうしょう) - 御伽草子のものぐさ太郎のモデルとされる。由緒では創建について不明であるが、穂高氏の系図には安閑朝に活動した阿曇犬養倉海連(くらみのむらじ)の子・船麻呂が穂高大神を奉斎したよう。犬養連は飼養した犬を用いて王権の屯倉を守護する品部を統率した氏族で、安閑朝に諸国に犬養部が設置されたことが日本書紀にある。穂高神社の社家が犬飼氏でもあった。

御神馬。古代安曇郡にも猪鹿牧(いがのまき)という勅旨牧があったが、牧の別当は大伴氏流細萱氏であった。安曇族はやはり湿地帯の開墾や漁業に携わっていたか。   

阿曇連比羅夫(あづみのむらじひらふ)。天智天皇の命により水軍を率いて百済の王・豊璋の復権を支援するため朝鮮へ。白村江の戦いで戦死。穂高神社の例祭日(御船祭)はこれに起因する。海人族の総大将、阿部比羅夫なる人物もいるがこちらは新羅の将軍との説も。

神社境内の「御船開館」に安曇族の歴史が展示してある。安曇族の祖、志賀海神社(しかうみじんじゃ)。現福岡市東区志賀島にある神社。 式内社(名神大社)。 全国の綿津見神社、海神社の総本社を称する。 海神族には宗像三神、住吉三神などもあるが綿津見神を奉ずる阿曇族が「宰(みこもち)」として代表だったよう。

志賀海神社の説明。イザナギの禊祓いの際誕生した底津綿津見、仲津綿津見、表津綿津見三神を祀る。宮司は代々阿曇氏が務める。海の神を祀るが、今でも「山誉めの祭り」があり山を重視することが結果的に信濃の穂高の地で山を祀っている。

全国の安曇族関係一覧(アヅミ地のみ)。福岡県志賀島を発祥に鳥取、兵庫、滋賀、岐阜、愛知、石川、長野、静岡、山梨、新潟、山形まで。信濃には岐阜から木曽川沿い、神坂峠を越え東山道沿いのルートや日本海ルートで姫川、信濃川を遡るルートなどの説がある。九州で朝鮮半島までの海上ルートの運行を握っていた安曇族ならば、日本海ルートで信濃川を遡るのはわけない。しかし、日本海から信濃川を遡るルートは弥生時代に既に開かれていた。信濃の最高神となったタテミナカタの諏訪神が出雲から日本海・信濃川ルートで入っていたのだ。九州から徐々に信濃に入った説と、磐井の乱に加担し朝廷側に追われたが、朝廷側に尽くし、白村江の戦いでは先頭に立った。

穂高神社の宝物。勾玉、馬具などがあり、穂高古墳群などから出土したものもあると思われるが、馬の生産が信濃の重要性を高めたのは間違いない。地域の開拓や船の運航にもかかせないものだっただろう。姫川、天竜川、木曽川などに比べるとゆるやかな流れの千曲川、犀川であるが、上りには馬が必要だったのではないか。半島から渡来した馬に馴れた人々も洛東江などゆるやかな川に比べると信濃川も急流に感じただろう。

安曇野市の古墳分布。左は常念岳山麓の烏川周辺で現在の国営アルプスあづみの公園(堀金・穂高地区)である。右の一番多いのは天満沢川沿いで右端は有明山山麓。穂高神社は左の烏川と右の穂高川の合流地点の左側である。双方は約5q離れている。左は弥生時代からの遺跡があり古墳時代に多くの古墳が造られた。奈良・平安時代の猪鹿牧付近であり別当は大伴氏流細萱氏。右の天満沢川沿いと有明山周辺は弥生時代の遺跡はないが、古墳時代になり多くの古墳が造られた。現在の穂高神社付近は弥生時代に「三牧橋遺跡」があるだけだが、古墳時代の遺跡が増え、奈良・平安時代にそのまま居住が続けられる。古墳時代になり開拓、開墾が急速に行われた。弥生時代の遺跡があることは、伝説の「安曇湖」は穂高神社付近にはなかったか。安曇族の古墳とみられるのは天満沢川沿いと有明山麓である。

日光泉小太郎像。安曇地方を開発した伝説。

日光泉小太郎伝説の説明文。これは「御船開館」にあった人形の制作者の説明文。上田地方に「小泉小太郎」伝説があり全く同じような物語。ただ、こちらでは安曇族や仁科氏の功績として捉えている。犀竜が「諏訪大明神の化身」としており、タケミナカタを海神とみている。タケミナカタは大国主の子であるがミナカタはムナカタであり宗像神であったかもしれない。

お船祭りの山車か。

有明山神社

安曇野市

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安曇野市穂高有明宮城にある有明山神社。有明山を御神体とする山岳信仰の神社で、本宮(里宮)のほか、有明山山頂(中岳・南岳)に奥大宮がある。祭神は「天岩戸伝説の神々」である。岩戸を開け明るくなったので「有明山」。付近は有明古墳群であり安曇族の古墳の可能性が高い。場所の「宮城」とは天皇の住居のことで、安曇族の祖「穂高見命」は神武天皇の叔父でもあり高貴な自負があったのか、「八面大王=八女の大王」の意識があったのか。摂津国神別の阿曇犬養連が移り住んだ場所ともいわれ、江戸時代でも犬養が付く村が8村あった。屯倉や御牧の守護をしていたとみられる。A群の「陵(みささぎ)塚古墳」は両袖式円墳で直刀、馬具、土師器、須恵器等出土の6C後半。「犬養塚古墳」は持送り石室で須恵器、馬具、直刀、鐔、鉄鏃、勾玉、管玉、ガラス小玉、切子玉、金環が出土。両袖式やドーム型の石室など近畿の影響がみられ摂津の阿曇犬養氏の線か。「宮城」の地名は宮城門の守衛をしていた海犬養、若犬養氏とも関係しているか。

有明山神社里宮付近から見る鉢伏山。筑摩、南安曇が見渡せる。海神族安曇族にとって信濃の海「諏訪湖」の方向である鉢伏山は有明山とともに聖なる山であった筈だ。

穂高郷土資料館の前にあった祠。こんな小さな祠に立派な屋根をかけ地元の方の気持ちがうかがえる。付近は天満沢沿いのB群37の円墳があり「ぢいが塚古墳」が長径36mで最大で無袖式横穴。ほとんど盗掘され二つだけ出土品があり、須恵器、土師器、馬具、直刀、鉄鏃、勾玉、管玉、小玉、切子玉、金環などで菱形留金具を出土した塚もある。馬具、直刀から単なる馬飼部でなく犬養部の警護的な役割の部族だったよう。白村江、壬申の乱などで活躍する部族であっただろう。

有明山神社近くの「魏石鬼の岩窟」(ぎしきのいわや)。穂高古墳群D群。横穴式石室で須恵器、馬具、耳環、近世遺物が出土。盗賊の八面大王が坂上田村麻呂や仁科軍に攻められ最後に立て籠もった場所とされる。盗賊の首領以下は殺され、首は筑摩神社、胴体が大王わさび農場の大王神社、その他穂高に耳塚、立足と名付けられた場所があり耳、足が埋められたとされる。ちなみに、大王神社、耳塚、立足を直線にたどるとここ魏石鬼岩窟になる。松川町側には「鼠穴」があり、宮城・大王と盗賊・鼠という相反する地名や伝説が残る。盗賊が安曇族に追われた蝦夷であれば、宮城・大王などとつける筈はなく、仁科氏が安曇族を盗賊、鼠などと蔑すんだよう。仁科神明宮の境内社の穂高見命を「簀(すのこ)社」としており、後発の仁科氏とすれば安曇開発の功を安曇族にだけにとられたくなかったか。あるいは木崎湖畔に先に入植していた仁科の祖が後から安曇族が入ってきて郡名まで「安曇」にしてしまったことに反発していたか。

筑摩神社。坂上田村麻呂の東征の際に石清水八幡宮を勧請したとの由緒。古代筑摩郡の場所でありその「筑摩」を冠した惣社的神社で松本藩でも崇敬された。天武天皇が行宮を造ろうとした「束間(つかま)の湯」の場所であり、地域では筑摩を「つかま」と呼ぶ。郡はチクマと呼ぶが、神社やこの地域はツカマと呼んでいる。筑摩の由来はわからないが、「筑」は明らかに九州の筑紫の「筑」だ。筑紫も「ツクシ」と呼ぶが、国としては筑前、筑後、筑後川など「チク」だ。松本から望める美ヶ原も(ウ)ツクシヶ原となる。筑摩郡に辛犬郷があり渡来系の「辛犬甘(からいぬかい)氏」がいたとされる。浅間温泉の桜ヶ丘塚古墳から金銅製天冠が出土しており辛犬甘氏との関係が指摘されている。辛犬甘氏は後の犬甘氏で戦国時代小笠原氏に仕え小笠原氏の所替に従い小倉に移っている。天武天皇は美努王(みぬおう/みのおう)を行宮調査に遣わしているが、王の妻は県犬養(あがたいぬかい)三千代であり後に藤原不比等の妻ともなる。松本には「県」(あがた)の地名があり信濃の国府からとされているが県犬養氏が国府の屯倉の管理で入っていたことも考えられる。夫を筑摩郡の辛犬郷に行かせたかも。県犬養の同族に高家首(たきべのおびと)がいるが、安曇郡には高家郷があり現在の安曇野市高家がある。

筑摩神社の西側にある「八面大王」らの首塚。八面大王が盗賊なら祠など造らなくてもいいのでは。古代信濃は縄文の宝庫であり、そこに弥生・古墳時代に入ってきた渡来人は多くの蝦夷達を殺しただろう。東北のアテルイのような勇敢な蝦夷もいただろう。しかし、青銅器、馬、鉄器の武器をもった渡来人に蝦夷がかなうことはなかった。日光泉小太郎伝説は侵略者の正当性の物語であり、八面大王の話は蝦夷に対する蔑視と鎮魂かもしれない。

明科廃寺跡

JR篠ノ井線明科駅から南西方200mに位置する信濃最初期の仏教寺院「明科廃寺」跡付近。近くに県の水産試験場がある場所。犀川、万水川、穂高川、高瀬川が合流するまさに「川会」の場所。明科は筑摩郡であるが、明科廃寺は「安曇族」創建と考えられている。正倉院御物の袴布に「天平宝字8年(764)10月信濃國安曇郡前科(さきしな)郷戸主安曇部真羊調布壹端」と「郡司主帳従七位上安曇部百鳥」との墨書名がある。いずれも「安曇部」であり、安曇族ではなく郡を冠した部民かも。信濃は調庸布のほとんどが麻布であった。前科郷とは現在の明科から池田町の山麓である。安曇郡、筑摩郡の馬や麻の生産や鮭がもたらす経済力が「安曇氏」の氏寺を造ったのではないかと考えられている。推古期に阿曇連が「法頭」に任命されており、各地の寺院建立に安曇族が寄与したことは推定される。

明科廃寺は安曇族の氏寺か〜安曇族の行方を追って〜

1日目の旅ルート

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