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さとけんさんの神奈川県の旅行記

【明治元勲の館】日常に溶け込むさりげない明治・井上馨の愛した別邸に泊まる【伊豆湯河原・清光園】

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3月の寒の戻り、小雨が降るある寒い日に伊豆湯河原を訪れ、明治年間築の素敵な一軒宿で、静かなひと時を過ごしてきました。歴史好きな方や川の瀬音だけがきこえる静かな時間を過ごしたい方にお勧めの宿です。

神奈川ツウ さとけんさん 男性 / 50代

1日目2016年3月10日(木)

湯河原 清光園 旧井上馨別邸の宿

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伊豆湯河原、井上馨の旧別邸、清光園。歴史好きな方や川の瀬音だけがきこえる静かな時間を過ごしたい方にお勧めの宿です。住所は静岡県熱海市泉となりますが、最寄り駅は神奈川県の湯河原駅です。湯河原温泉郷・万葉公園の近くです。湯河原駅から徒歩で35分くらい、もしくはバスで10分ほどの、千歳川沿いの一軒家です。

湯河原 清光園 旧井上馨別邸の宿

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清光園へ到着。門をくぐります。車で行かれる方の駐車スペースは、この写真左側・黒塀の手前に数台停められます

井上馨の旧別邸の外観は、こじんまりとした和風一軒家ですね。湯河原・清光園。

井上馨公について。「井上 馨(いのうえ かおる、天保6年11月28日(1836年1月16日) - 大正4年(1915年)9月1日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家、実業家。太政官制時代に外務卿、参議など。黒田内閣で農商務大臣を務め、第2次伊藤内閣では内務大臣など、数々の要職を歴任した。栄典は従一位大勲位侯爵、元老。 特に理財の才能に恵まれていたと評価される。幕末に日本と諸外国との間に締結された不平等条約改正の観点から欧化政策を推進して鹿鳴館と帝国ホテル建設に尽力した。 」(「」内はネット辞典から抜粋)写真は清光園のお庭です。

清光園の玄関へ。写真左手奥に先刻くぐった門があります、右手に清光園の玄関。

小奇麗で立派な清光園の玄関です。柔らかい印象の御主人が優しく出迎えてくださいました。

清光園、特色ある六角間。まずは六角間のある居間にて、宿帳の記入を。食事は18時か18時半か、風呂は食事の前か後か、朝食は7時半か8時か、それぞれ選択します。

清光園の御主人が館内の説明をしてくださいます。本日は私一組の宿泊のため、一階の居間で食事、寝室は二階となります。昨年中(2015年)の予約までは一人旅のプランもあったのですが、今年からは二人以上で予約を取るようになりました。御主人によれば、宿を始めて4年間ほどになるけれど、一人旅の方は3組ほどでした、とのこと。一人旅の好きな私からすると意外と少ないなという印象です。私は2015年の12月に予約しておりましたので、一人でも宿泊することが出来てラッキーでした。

清光園の六角間。室内には感じの良い調度品がさりげなく置かれています。御主人によると、「調度品は詳しくは判らないけれど、この建物は明治に造られたころのままです」とのこと。

清光園の六角間。この建物は以前に曳家をしたとのことです。建物を持ち上げて、庭の方向へ移動したとのこと。「曳家(ひきや)とは、建築物をそのままの状態で移動する建築工法である。曳舞とも称す。土地区画整理事業、歴史的建造物の維持保存、或いは建築物を解体せずに別の場所へ移動する場合に活用される建築工法である。解体して立て直す工法は再築工法(さいちくこうほう)。 」(「」内はネット辞典から抜粋)

六角間と続きの間。こたつは掘りごたつです。湯河原・清光園にて。

刺繍で文字が書かれています。いったい何が書かれているのだろうと、御主人にたずねましたら、右の3列はすべて「福」という字、左の3列はすべて「寿」という字だそうです。教えていただいた後は、確かにそんな風に見えてきました!湯河原・清光園にて。

「晴湖」とあります。湯河原・清光園にて。この晴湖という方は女性で「常に懐にピストルを忍ばせていたと聞きました」と御主人から教えていただきました。何と言う女傑でしょう。そこでネット辞典で調べてみますと、『奥原 晴湖(おくはら せいこ、天保8年8月15日(1837年9月14日)- 大正2年(1913年)7月28日)は、幕末から明治期の画家。野口小蘋とともに明治の女流南画家の双璧といわれ、また安田老山と関東南画壇の人気を二分した』(『』内はネット辞典より)。木戸孝允や山内容堂などのビッグな後援者がいたとのこと。また、明治9年(1876年)に当時学生だった岡倉覚三(天心)が晴湖に入門しているとのことです。湯河原・清光園にて。

隣の部屋へ行くと、竹林の七賢を題材にした引手がありました。湯河原・清光園にて。どの引手も同じものがないとのこと。目立たないところにこだわりがあるのですね。他にも渡辺崋山の次男・渡辺小華の襖絵や、狩野派の絵師の絵を見せていただきました。以下、ネット辞典より。「竹林の七賢(ちくりんのしちけん)とは、3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した、下記の七人の称。阮籍(げんせき)?康(けいこう)山濤(さんとう)劉伶(りゅうれい)阮咸(げんかん)向秀(しょうしゅう)王戎(おうじゅう)。阮籍が指導的存在である。その自由奔放な言動は『世説新語』に記されており、後世の人々から敬愛されている。7人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃からそう呼ばれるようになったとされる。隠者と言われることがあるが、多くは役職についており、特に山濤と王戎は宰相格の高官に登っている。日本では竹林の七賢というと、現実離れしたお気楽な発言をする者の代名詞となっているが、当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、事実、?康は讒言により死刑に処せられている。彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(目くらまし)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞される」

井上馨の盟友・伊藤博文書「光風動春」。湯河原・清光園にて。「滄浪閣主」書いてあります。(滄浪閣とは伊藤博文公の別邸の名称です。)。ちなみに、「光風動春」とは、「(雨後の)晴天に ふく心地よき風が春を生ず」という意味で、心の高明寛大「おおらかで寛容な心が幸福を運んでくる」という意味もあります。また、滄浪閣については、ネット辞典で調べましたところ「滄浪閣(そうろうかく)は、1890年(明治23年)に、足柄下郡小田原町(現:神奈川県小田原市)に建てられた、政治家・伊藤博文の別邸。1897年(明治30年)に中郡大磯町に同名の邸宅を建てて移転し、本籍も同町に移したことから、本邸となった。」とあります。大磯の滄浪閣は本邸なんですね。

井上馨の別邸・湯河原・清光園の玄関にて。ネット辞典で伊藤博文公を調べましたところ、井上馨との逸話でつぎのようなものがありました。「太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる」とありました。まさに盟友のアシストといった話ですね。

六角間のある居間に入る引き戸、読めないのですが、右から落?蕗?(草冠に格のような気もしますが)・奉・椋・木でしょうか。仮にそう読むとして、意味は判りません。文字部分は脱着可能で、戸板は屋久杉の一枚板とのこと。湯河原・清光園にて。

1階の廊下、鴬張りの廊下。2階の廊下も鴬張りとのことで、「キュッ」と鳴ります。湯河原・清光園にて。

曳家をする前に建物が存在した場所、玄関を出て目の前の土地です。かつては、2階や六角間から見える庭が、今よりも広かったはずですね。湯河原・清光園にて。

2階の本日の寝室へ移動しました。ここはかつての来客用の間とのこと。見事な襖絵です。湯河原・清光園にて。

2階襖絵の作者は「和亭」、「明治 辛巳年 三月」明治14年3月の作品。 明治年間で干支が辛巳(かのとみ、しんし)となるのは、1881年・明治14年らしいですね。御主人によると、「(この別邸は)だいたい明治30年代の建築と伝わっているのですが、(この絵のように)明治10年代の品物が多くあって、今でも交流のある井上馨の御子孫とは、『明治30年代よりももうちょっと前の建築なのでは?』と話しているのです」ということです。湯河原・清光園にて。作者の和亭についてネット辞典で調べました。以下ネット辞典より。「滝 和亭(たき かてい、文政13年1月3日(1830年1月27日) - 明治34年(1901年)9月28日)は、南画家。江戸生まれ。名は謙、字は子直、別号は蘭田。大岡雲峰と坂本浩然に師事したのち、長崎に遊学する。日高鉄翁に学び、陳逸舟などの清国人とも交わりをもつ。安政元年(1854年)江戸に帰る。幕府に仕え、安政3年(1856年)から諸国を歴遊し、慶応2年(1866年)江戸に帰る。ウィーン万国博覧会、フィラデルフィア万国博覧会、シカゴ万国博覧会に出品し、内国勧業博覧会と内国絵画共進会では毎回受賞する。明治26年(1893年)9月25日帝室技芸員となる。美学者の滝精一は息子。弟子に、和亭の二女と縁組した原丹橋、荒井寛方の父・荒井素雲、佐藤紫煙、女流画家波多野華涯など。」とあります。

湯河原・清光園の2階客間の徳富蘇峰の書、「心安夢自長」と読むのでしょうか。「こころ安かれば、夢、自ずから長し」ということになるのでしょうか。蘇峰・九十一歳の作品なのでしょう。徳富蘇峰についてネット辞典で調べましたら次のような内容でした。『徳富 蘇峰(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる 』神奈川県の二宮町に徳富蘇峰記念館がありますね。

2階客間の隣の部屋の西園寺公望の書、右から「寿」「如」、その次の文字がちょっとわからないです。西園寺公望の雅号「陶庵」とあります。右から三つ目の文字は、「安」をてがかりに「案・按・晏・宴」あたりでしょうか、意味から察するに、長生きや幸福は「@晏というもじならば、安らかに落ちる日の如し」「A宴という文字ならば、宴の如し」なのでしょうか。御主人にたずねれば良いのですが、私はパッと見た時にはほぼ読めないし、説明を聞くのに集中してしまうものですから、家に帰ってから調べるから悩んでしまいます。西園寺公望公についてネット辞典より。「西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月22日(1849年12月6日) - 昭和15年(1940年)11月24日)は、日本の公家、政治家、教育者。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒。戊辰戦争において官軍の方面軍総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった。第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。第4次伊藤内閣では班列として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。」大磯の滄浪閣の隣に西園寺公望公の別邸跡があります。

御主人は一通り説明してくださった後に、(絵や書に関して)「しっかり(来歴など)調べて保存の手を入れられれば良いとも思うのだが、それをやると手間も費用もかかってしまうので」という内容のことをおっしゃっていました。それ故「本物かどうかも判らなくて」とのことです。その場に滞在した私の感想を言えば、(もちろん私には真偽を判別する能力はありませんが、)建物と絵や書や調度品などの醸す全体の雰囲気というものが実に調和がとれていて、清光園での滞在を通して、歴史が日常に溶け込んだ時間と空間を楽しむことが出来たというのが率直な感想です。湯河原・清光園の玄関。

刺繍で装飾された珍しい襖・清光園の2階客間にて。この2階の部屋は映画の撮影に使われたとのことです。(2016年12月公開予定・海賊と呼ばれた男)です。

清光園2階の廊下・歪んだガラスにいにしえの味わい。建物のガラスは1〜3枚ほどは割れて新しいものにしたけれども、その他のガラスはすべて建築当時のものが残っていますと御主人。

そしてこれが東郷チェアー。本好きの東郷平八郎公が訪れると、この椅子に座って読書をされたとのことで、「私が座ってもいいのですか」と御主人に聞くと、「どうぞどうぞお座りください」と言ってくださいました。翌朝はこの椅子に座って私も本を読みました。この東郷平八郎公、若いころの写真を調べますと、なかなかの男前ですよ。明治2年の宮古湾海戦では軍艦・春日に乗艦し、幕府側の軍艦・回天に乗艦の土方歳三と戦いました。以下、ネット辞典より「東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の幕末から明治時代の薩摩藩士、軍人。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位大勲位功一級侯爵。 明治38年(1905年)5月27日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた 」

湯河原・清光園の六角間のある居間の掘りごたつで夕食の開始です。白和えも菜の花も美味しい!明治の世にここで過ごされた井上馨公も、約100年後の同じ空間で、この私が舌鼓を打っている光景は、さすがに想像できなかったことでしょう。

煮物とお漬物。美味しい!これを書いていると思い出してお腹が空いてしまう。湯河原・清光園にて。

本当に私がこれを全部食べていいのでしょうか!千歳川の瀬音を聞きながら、六角間のある居間の掘りごたつでおもてなしを受けている真っ最中。美味しい白米を持ってきてくださった御主人が「この後は洋風の、少しボリュームがあるのが来ますから」と。ちょ、ちょっと待ってください。もうすでにかなりのボリュームなんですが。湯河原・清光園にて。

手づくりのラザニア・熱々です。湯河原・清光園にて。

お、おいしいのに完食出来ないなんて(この私が)。湯河原・清光園にて。一人旅プランが無くなったのもうなづける、全部丁寧な手づくりのボリュームたっぷりの御夕飯でした。

食事の後はお風呂です。家屋の曳家をした際に、水回りは新しくしましたとのことで、 トイレ・お風呂・洗面台など手入れが行き届いていて清潔です。いい温泉でした!湯河原・清光園にて。

食事の後は六角間で読書、今日は雰囲気に乗っての選書。田中光顕公と井上馨公の共通点の一つに、古美術蒐集家であったということが挙げられると思います。田中光顕公の旧別邸・旧別荘も、小田原や蒲原に現存していますね。田中光顕公は、昭和14年に97歳で亡くなっています。以下、ネット辞典より、「田中 光顕(たなか みつあき、天保14年閏9月25日(1843年11月16日) - 1939年(昭和14年)3月28日)は、日本の武士・土佐藩家老深尾氏家臣、官僚、政治家。土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。叔父の那須信吾は吉田東洋暗殺の実行犯だが、光顕も関与した疑いもある。しかし文久3年(1863年)、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志を集めて脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。 」湯河原・清光園にて。

六角間の照明の下で。だいたい21時半ごろに2階の寝室へ移るまでここで本を読んで過ごしました。湯河原・清光園にて。

湯河原・清光園にて。

続きは布団に入りながら読書です。千歳川の瀬音をききながらの読書。静かです。湯河原・清光園にて。

2日目2016年3月11日(金)

湯河原 清光園 旧井上馨別邸の宿

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翌朝、ウグイスの鳴き声で目が覚めました。小雨のふる寒い朝ですが春告鳥が健気に鳴いていました。湯河原・清光園にて。

室内は掃除が行き届いていて清潔です。湯河原・清光園にて。

湯河原・清光園2階にて。

清光園・2階からの眺め、お猿や猫が訪ねてくる庭。湯河原・清光園にて。御主人の御厚意で朝風呂をつかわせていただきました。

お腹が空いたところで、朝食はこの部屋の掘りごたつでいただきます。湯河原・清光園にて。

ホッとするコーヒー、美味しいですね〜。湯河原・清光園にて。

ジャーマンソーセージとバターたっぷりのスクランブルエッグ。むう、ウマい。湯河原・清光園にて。

湯河原の有名店、BREAD & CIRCUS(ブレッド & サーカス)のパンなど。良い香りの美味しいパンをいただきました。湯河原・清光園にて。

BREAD&CIRCUS

湯河原町(足柄下郡)

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神奈川県の温泉地、湯河原にあるパン屋ブレッド&サーカスです。天然酵母のハード系食事パンや個性的な焼き菓子があります。「住所  神奈川県足柄下郡湯河原町土肥4-2-16」「営業時間  11:00〜17:00(商品がなくなるまでとさせていただきます)」「定休日  毎週 水・木・日曜日」「※「一度に店内に入れるのは5名様まで。5名まで入ったら、その後は1組ずつの自主入替え制とのことです。」

伊藤博文公の書の下で、のんびりと朝食を食べる贅沢。湯河原・清光園にて。

ああ、雨か。こんな朝も良い。湯河原・清光園にて。

珈琲もたっぷりいただきました。湯河原・清光園にて。

さて、そろそろおいとまです。湯河原・清光園にて。

むう、名残惜しい。湯河原・清光園にて。短い滞在でしたが、叔父の家に遊びに行ったような、そんなもてなしをうけて満足満足の清光園でした。最近は一人単位の行動が多い私ですが、誰かを誘ってまた来たいと思う宿でした。

皆さんもぜひ、伊豆湯河原の清光園へ行ってらしてください。お勧めの素敵な宿です。

静岡県熱海市泉・清光園近くの千歳川にかかる橋にて。橋の欄干にお猿さんがいました。あまり近づくと危ないです。湯河原駅まで私は歩いて帰りました(2.5kmほど・約30分)が、近くにバス停がありますので、バスで湯河原駅まで行くこともできます。

【明治元勲の館】日常に溶け込むさりげない明治・井上馨の愛した別邸に泊まる【伊豆湯河原・清光園】

1日目の旅ルート

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