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Shotaさんの埼玉県〜長野県の旅行記

忠臣蔵史跡、三峯神社(秩父市)、安曇野ちひろ美術館、松本城と付近の城址へ

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東京での治療と診察の後、長命寺のさくら餅と言問い団子、忠臣蔵の史跡を巡って八王子に投宿。翌朝、三峯神社へ登り、その後安曇野ちひろ美術館と松本城へという移動距離の長いドライヴとなった。

歴史ツウ Shotaさん 男性 / 70代

1日目2022年6月3日(金)
10:00-11:00

さかもと治療院(碑文谷)

さかもと治療院はオステオパシー(骨治療法)の治療院。こうしてクルマであちこち走り回れるようになったのも、こちらでの治療のおかげだ。

11:00-11:00

長命寺桜もち

墨田区

「長命寺桜もち」を   >

享保2年(1717年)創業者の山本新六が、大川土手の桜の葉を塩漬けにし、薄い皮で餡を包んだものに巻いて売ったのが始まり。首都高速向島出入口の側にある。

11:00-11:00

長命寺 桜もち

「桜もち」五個入りが1300円。赤い毛氈の敷かれた店内で煎茶を含みながらゆっくり味わうこともできる。(一個、350円)

11:00-11:00

桜もち

丁度良い甘さの餡の入った餅を、いい塩梅の桜の葉三枚でくるんである。くるんだまま食べるもよし、葉を取って食べるのもよし。二十数年ぶりだ!

11:00-11:00

言問い団子(墨田区)

桜もち屋の斜向かいにある「言問団子」は、植木師の外山佐吉が江戸末期に創業。小豆餡と白餡、それに味噌餡の三種類の団子が楽しめる。

12:00-13:00

しのみやクリニック(秋葉原)

今回は体調報告のあと、映画の話やボクシング、宮沢賢治の独特な世界などをあれこれと語り合う貴重な癒しの時間。

14:00-14:00

江戸城

千代田区

「江戸城」を   >

江戸城本丸の中庭を囲むように渡してある「松之廊下」で、元禄14年(1701年)3月14日、播州赤穂の城主浅野内匠頭長矩が高家筆頭の吉良上野介義央に斬りかかるという刃傷沙汰が起きた。

14:00-14:00

江戸城本丸松の廊下図

松の廊下は図の右側中ほど。『忠臣蔵百科』「―― 上野介には前々より意趣あり、殿中畏れ多く存じ候えども是非に及ばす刃傷に……」という長矩の言葉に関して様々な解釈がなされてきた。饗応役の指南料不足、内匠頭の持病、塩田の技法を巡って等々。

15:00-15:00

赤穂藩上屋敷址(中央区明石町)

赤穂藩上屋敷には目付二名が派遣され、両三日中に屋敷を引き払うよう伝えられたが、一夜のうちに明け渡された。 同屋敷は現在聖路加看護大学がある中央区明石町付近にあった。

15:00-15:00

浅野内匠頭邸址

常陸国笠間藩主であった浅野長直が、正保2年(1645年)領地替えにより播磨国赤穂藩へ入封。延宝3年(1675年)父・長友から家督を継いだ長矩が赤穂藩第三代藩主となった。当時の赤穂藩上屋敷はおよそ8,900坪であったとされている。長矩はこの屋敷で産まれている。

15:00-15:00

浅野内匠頭終焉の地(港区新橋)

奥州一関藩3万石、田村右京太夫武顕の上屋敷が内匠頭終焉の地であった。申の刻(午後4時頃)到着。大紋を脱がされた長矩は出された料理を断り、湯漬けを所望したという。午後5時頃到着した幕府検使役、庄田下総守安利(大目付)・多門伝八郎・大久保忠鎮らが切腹・改易を宣告。しかも庭先で直ちに切腹と相成った。享年35。 官位を持つ大名に庭先での切腹を命じた庄田は後に大目付を罷免されている。

15:00-15:00

浅野内匠頭 辞世の句

「風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残りをいかにとやせん」これが内匠頭の辞世の句とされている。ところが実際は辞世は詠んではおらず、「―― 此の段、予ねて知らせ申すべく候得ども、今日やむを得ざる事に候故、知らせ申さず候、不審に存ずべく候」という遺言を残したとも言われている。 遺骸は浅野家用人粕谷勘左衛門、留守居役建部喜六ら6名が引き取り、菩提寺泉岳寺に埋葬された。

赤穂城址(赤穂市)

【参考】赤穂城址。主君内匠頭の刃傷沙汰と切腹、改易の報は3月14日、三便続けて発せられた。第一便は早駕籠で刃傷沙汰の件を、第二便は足軽飛脚、第三便は早駕籠で、長矩切腹と改易の報であった。急使は600キロ余を走り抜け、四日目18日の夜から明け方にかけて赤穂に到着。

大石内蔵助宅址(赤穂市)

【参考】大石内蔵助宅址。江戸から急使が早朝叩いたのはこの門であったろう。 主君の切腹、浅野家取り潰しの急報は大石をはじめ家臣一同に深刻な波紋を巻き起こした。大石は主家の家名存続を主眼とし、改易された藩の始末に腐心する。

大石神社(京都市山科区)

【参考】元禄14年(1701年)7月から同15年(1702年)9月まで大石が隠棲し、義挙の議をめぐらした間、居宅を構えた付近に大石神社がある。かつて赤穂藩家老を務めた同族の進藤源四郎から地所を譲り受け、「池田久右衛門」と名乗って楽隠居するかに見せかけたようだ。

16:00-16:00

赤坂氷川神社

港区

「赤坂氷川神社」を   >

赤坂氷川神社は享保15年(1730年)現在の赤坂四丁目からこの地へ遷座された。それ以前、ここには瑤泉院の実家三次藩浅野家の下屋敷があり、夫長矩の死後、兄長照に引き取られた。 歌舞伎・講談で、内蔵助が暇乞いに阿久里(瑤泉院)を訪れたとする「南部坂雪の別れ」は史実ではなかったようだ。

16:00-16:00

本所松坂町公園(吉良上野介屋敷跡)

墨田区

「本所松坂町公園(吉良上野介屋敷跡)」を   >

元禄15年(1702年)12月15日寅の上刻、午前4時ごろ、吉良邸の表門から大石内蔵助を大将として総勢23名、裏門からは大石主税を首将に総勢24名が同時に攻め入った。明け方でしかも前夜、茶会が催されたこともあり、戦いは一方的であった模様。

16:00-16:00

吉良上野介屋敷

中村勘助筆「義士連名状」。浅野内匠頭家来口上として、前文に討入りの趣意を書き、続いて四十七士の名を連ねたもの。討入りに際し主だった者が懐中し、一通は吉良邸玄関前に青竹に結びつけて立てかけたという。(花岳寺蔵)『太陽』

16:00-16:00

吉良上野介屋敷(模型)

吉良邸は東西の長さ73間7尺3寸(約134.9m)、東側(右)に表門、西側(左)に裏門があった。上野介の寝室は裏門近くにあったと見られる。(模型は吉良歴史民俗資料館蔵)

16:00-16:00

吉良邸址

吉良邸は当初鍛治橋にあったが、刃傷事件後当地本所に移されていた。当時の吉良邸の敷地は2,550坪、建物が846坪余り。 寝込みを襲われた吉良側が迎撃態勢を取れぬ間に突き進み、表門組と裏門組とが出合って上野介の潜伏場所をさがす。物置部屋で発見、首級を上げる。討ち入ってから一刻(2時間)後であった。

16:00-16:00

回向院正門址(両国)

回向院山門址。 夜明け前、一同揃って吉良邸裏門より退出。待機・休息のため旧回向院に向かうが、返り血を浴びた浪士たちの姿に寺側は門を開けなかったという。

17:00-17:00

義士休息の地(江東区佐賀)

一同は隅田川沿いに南下、永代橋手前の味噌問屋乳熊屋で休息。乳熊屋主人作兵衛は、浪士のひとり大高源吾と俳諧の同門であったことから、温かい甘酒をふるまったと伝わる。

17:00-17:00

永代橋

中央区

「永代橋」を   >

しばし休憩し、永代橋を渡って泉岳寺への道を急ぐ。 永代橋の創架は元禄11年(1698年)で、現在の位置より100mほど上流にあった。 

17:00-18:00

泉岳寺

港区

「泉岳寺」を   >

辰の刻、午前8時頃泉岳寺に着いた浪士らは、内匠頭の墓所に詣で上野介の首を供えて焼香。沙汰を待つ。 この山門は天保3年(1832年)再建。二階に十六羅漢が安置され、一階部分の天井に大蟠龍がはめ込まれている。

17:00-18:00

泉岳寺 本堂

萬松山泉岳寺は慶長17年(1612年)家康が外桜田に門庵宗関を招いて創設したが寛永18年の大火で焼失、現在の地に再建された。本堂は昭和28年(1953年)再建。釈迦牟尼を本尊とし、曹洞宗の宗祖道元・瑩山、大石内蔵助の守り本尊摩利支天などが納められている。寛永期、寺の再建に浅野家も尽力したことから菩提寺となっている。

17:00-18:00

泉岳寺 大石内蔵助像

山門脇に立つ大石内蔵助の像は、浪曲の宗家桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、大正10年(1921年)除幕。

17:00-18:00

泉岳寺 浅野内匠頭墓

浅野長矩(1667-1701年)は播磨赤穂藩第三代目藩主。赤穂浅野家は広島藩浅野家の傍流の一つ。元禄14年(1701年)二度目の勅使饗応役に任ぜられ、殿中刃傷に及ぶ。享年35。

17:00-18:00

泉岳寺 瑤泉院墓

瑤泉院(1674?-1714年)、名は阿久里。備後国三次藩主、浅野長治の三女。夫長矩の死後は赤坂の三次浅野家下屋敷に引き取られ、落飾して夫の菩提を弔った。享年41。

17:00-18:00

泉岳寺 大石内蔵助墓

大石良雄(1659-1703年)、播磨赤穂藩筆頭家老。通称内蔵助。大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族。良雄の曽祖父良勝の代から浅野家に仕える。良雄は21歳のときに筆頭家老となる。元禄15年(1702年)吉良家に討ち入り、翌年、熊本藩主細川邸において切腹。享年45。

17:00-18:00

泉岳寺 大石主税墓

大石良金(1688-1703年)、通称主税。大石良雄と妻りくの嫡男。赤穂藩改易時は数え年で14歳、元服前であったが、元服し討ち入りに加わる。伊予松山藩主松平邸において切腹。享年16、最年少であった。

17:00-18:00

泉岳寺 浪士墓

浪士の墓。大石父子の墓の側の石段を上がった所に他の浪士たちの墓が並ぶ。浪士たちは四家へ預けられ切腹と相成った。熊本城主細川越中守綱利邸へ大石内蔵助・吉田忠左衛門以下17名、伊予松山城主松平隠岐守定直邸へ大石主税・堀部安兵衛以下10名、長門長府城主毛利甲斐守綱元邸へ岡島八十右衛門・吉田沢右衛門以下10名、三河岡崎城主水野監物忠之邸へ間十次郎・奥田貞右衛門以下9名。『元禄忠臣蔵』

大石神社(赤穂市)

【参考】 赤穂大石神社は当初、旧赤穂城内の大石邸内に祠が設けられていたが、明治33年(1900年)あらためて「大石神社」として赤穂城址近くに創建された。浅野家三代、大石良雄ら赤穂浪士47人および萱野重実などを主祭神とする。

吉良家祖先の東条城址(愛知県西尾市吉良町)

【参考】東条城は三河吉良家の本城であった。吉良家は、承久3年(1221年)足利義氏が承久の乱の戦功により三河国守護職に任ぜられたときに始まる。『日本城郭大系 9』

東条城址(西尾市)

【参考】東条城址。足利義氏は当初西条(西尾城)に城を構え、後にこの地に移って代々居城とした。家康の支配下で城は廃城となる。 義氏の子、長氏が吉良姓を名乗る。上野介義央はその末裔である。

吉良陣屋址(西尾市吉良町)

【参考】吉良陣屋址。吉良(岡山)陣屋は天正期(1573-92年)吉良義定が居館を構えたのが始まりとされる。義定の嫡男義弥は関ケ原の戦いに参戦、領地を安堵され、義冬が跡を継いだ。義冬の嫡男が上野介義央である。

黄金堤(西尾市吉良町)

【参考】黄金堤。伝承によると、貞享3年(1686年)たび重なる洪水に悩まされていたこの地に上野介が私財を投じ、領民の力を結集して堤防を築いたとされている。

黄金堤

【参考】黄金堤の側には馬上の上野介の像が建ち、台座にこう刻まれている。「若くして友情に厚く隣人に慕われ、功成り名遂げた後は善行という善行のかぎりをつくし、人生の行路ようやく終わりに近づこうとするに及んで、運命はだしぬけに逆転する。」尾崎士郎「吉良の男」より

華蔵寺(西尾市吉良町)

【参考】片岡山華蔵寺は慶長5年(1600年)上野介の曽祖父義定が創建した臨済宗の寺院。吉良家の菩提寺である。上野介が造らせた庭園や寄進した梵鐘や経蔵が残っている。

華蔵寺 吉良家墓所

【参考】吉良家墓所。吉良義安から上野介の継嗣義周まで6代の墓がある。

華蔵寺 上野介墓

【参考】吉良上野介義央の墓。上野介の受けた傷は「両手之内(掌)一カ所宛、左の股に一カ所、右膝頭二か所、膊(股の骨)一カ所」とある。『元禄忠臣蔵』 かなり抵抗したようだが、致命傷ではなかったようだ。

花岳寺(西尾市吉良町)

【参考】祥雲山花岳寺は貞和3年(1347年)三河国東条城主、吉良尊義創建の臨済宗の寺院。中世、吉良荘東条を領した東条吉良氏の菩提寺。本堂は上野介から姉・光寿院の菩提を弔うために寄進された洞堂金を元に再建されたもの。

花岳寺

【参考】斎藤清左衛門墓。清左衛門は本所の吉良邸において討死。中小姓里方斎藤金右衛門が分骨、花岳寺墓地に葬ったが、芝居等での悪評のせいか法名(本翁元来信士)が削り取られている。

円融寺(西尾市吉良町)

【参考】龍光山円融寺は大永5年(1525年)長宮院日詮による開基と伝わる日蓮宗の寺院。十界大曼荼羅を本尊とする。

円融寺 清水一学墓

【参考】円融寺裏の山にある共同墓地に、上野介が中小姓にとりたてた清水一学の墓がある。本所吉良邸で討死、享年25。

20:00-23:00

八王子ホテルニューグランド

八王子市内、浅川沿いのホテル。もう三度目。夕食は市内で買った弁当・煮物と桜もち。風呂に浸かってゆっくり休んだ。

2日目2022年6月4日(土)
00:00-06:00

八王子ホテルニューグランド

わりと良く眠って、5時に起床。シャワーを浴びて簡単な朝食と桜もち。6時半に出発。

08:00-08:00

道の駅 みとみ

山梨市

「道の駅 みとみ」を   >

国道140号線沿いにある「道の駅 みとみ」で小休止。西沢渓谷の入口にあるかなり広い道の駅。地元の特産品やほうとうなども食べられそう。

09:00-10:00

三峯神社

秩父市

「三峯神社」を   >

三峯神社の参道入口に立つ三ツ鳥居。社伝によれば、景行天皇時(4世紀)日本武尊創建とされる。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉册尊(いざなみのみこと)を主祭神とする。

09:00-10:00

三峯神社 随身門

現在の随身門は寛永4年(1792年)再建。三間一戸の八脚門は銅板葺の切妻造で軒唐破風を持つ。「三峯山」の扁額は増山雪舟の筆。

09:00-10:00

三峯神社 手水舎

手水舎は嘉永6年(1853年)造営。木鼻や破風に龍、縋破風に鳳凰という豪華な造りである。

09:00-10:00

三峯神社 拝殿

拝殿は寛政12年(1800年)造営。扁額は有栖川宮の筆。 パワースポットとしての人気を示す参拝者の列。

09:00-10:00

三峯神社

手水舎の軒下から神木、拝殿を見上げる。拝殿・本殿の前には神木とされる大杉が二本そびえている。畠山重忠が植樹したとされ「重忠杉」とも呼ばれている。

15:00-16:00

安曇野ちひろ美術館

松川村(北安曇郡)

「安曇野ちひろ美術館」を   >

安曇野ちひろ美術館は、ちひろ美術館(東京)の開館20周年を記念して、いわさきちひろの両親が開拓農民として暮らした、北安曇野郡松川村の村営安曇野ちひろ公園内に1997年開館。いわさきちひろと世界の絵本画家の作品を収蔵している。

15:00-16:00

ちひろ美術館

美術館の設計は「海の博物館」や「牧野富太郎記念館」などを手がけた内藤廣。鉄筋コンクリート構造だが、内部は小屋組木造り、木の床でとても落ち着いた雰囲気。美術館と公園を自由に出入りできる。

15:00-16:00

ちひろ美術館

五つの展示室は、1. ちひろの仕事−原画の展示 2. ちひろの人生−出来事の紹介と遺品などの展示 3. 世界の絵本 4. 企画展 5. 絵本の歴史、などとなっている。

15:00-16:00

ちひろ美術館

『戦火のなかの子どもたち』はいわさきちひろの遺作となった絵本。 「いましなければベトナムの人は、あの子どもたちはみんないなくなっちゃうんじゃないかと思って・・・」 激しい爆撃を受けているベトナムの子どもたちに思いをはせ、自らが体験した第二次世界大戦と重ね合わせながら、この絵本を描いた。

15:00-16:00

ちひろ美術館

「赤いシクラメンの花は きょねんもおととしも そのまえのとしも 冬のわたしのしごとばの紅一点 ひとつひとつ いつとはなしにひらいては しごとちゅうのわたしとひとみをかわす。  きょねんもおととしも そのまえのとしも ベトナムの子どもの頭のうえに ばくだんはかぎりなくふった。  赤いシクラメンの そのすきとおった花びらのなかから しんでいったその子たちの ひとみがささやく。あたしたちの一生は ずーっと せんそうのなかだけだった。」『戦火のなかの子どもたち』 今、同じような状況にある子どもたちと重なる。

15:00-16:00

ちひろ美術館

「母さんといっしょに もえていった ちいさなぼうや。」『戦火のなかの子どもたち』

15:00-16:00

ちひろ美術館

「あの子は 風のように かけていったきり。」『戦火のなかの子どもたち』 他の作品にはない、厳しく哀しい目をしている。

15:00-16:00

ちひろ美術館

「もうずっとむかしのことといえるかしら 東京のくうしゅうがあけたあさ 親をさがしていた ちいさな姉弟のおもいで。」『戦火のなかの子どもたち』 犠牲になるのは弱い子どもたちだ。

15:00-16:00

ちひろ美術館

絵本にそえて いわさき・ちひろ 「ベトナムでは長いこと戦争がつづいておりました。・・・わたしは日本の東京のせまい仕事場で、それらの戦争のことと、わたしの体験した第二次世界大戦のことを、こころのなかでいつもダブらせてかんがえていました。 戦場にいかなくても戦火のなかでこどもたちがどうしているのか、どうなってしまうのかよくわかるのです。子どもは、そのあどけない瞳やくちびるやその心までが、世界じゅうみんなおんなじだからなんです。そういうことは、わたしがこどものための絵本をつくっている絵描きだからよけいわかるのでしょうか。」『戦火のなかの子どもたち』

15:00-16:00

ちひろ美術館

いわさきちひろ「世界中のこどもみんなに平和としあわせを」1970年。 「ベトナムの子どもを支援する会」ポスター(絵葉書)

16:00-16:00

井川城址(松本市)

井川城(館)は南北朝初期、小笠原貞宗が足利尊氏のもとで武勲をたて、守護として入部したときから小笠原氏の本拠地であった。当時、現在の松本城の地には井川館の支城があった。『日本城郭大系 8』

16:00-16:00

村井城址(松本市)

小屋館(村井城)は鎌倉期、村井氏の創建。村井氏は松本を中心に筑摩郡から安曇郡にかけて栄えた犬甘氏の一族で、埴原勅旨牧から興った武士である。『日本城郭大系 8』

16:00-17:00

国宝松本城

松本市

「国宝松本城」を   >

現在の松本城の原形を創建したのは文禄・慶長期(1592-1615年)石川康昌の子康長であった。しかし、城館らしきものが構築されたのは室町初期のことである。『日本城郭大系 8』

16:00-17:00

松本城 天守・乾小天守・埋橋

西から見た天守群と埋橋。朱色の埋(うずみ)橋は往時は橋ではなく足駄塀が設けられていた。戦時には壊され、敵の侵入を阻んだ。昭和30年(1955年)の大修理の際に架けられたものだが、現在は渡ることはできない。

16:00-17:00

松本城 天守閣

天守は連結式・複合式で五重六階の層塔型である。現在の天守は慶長期前半(1596-1605年)頃に乾小天守(当初の三重天守改造)と渡櫓とともに築かれたと考えられる。『日本の城−松本城V』

16:00-17:00

松本城 太鼓門櫓門

本丸の東側にある太鼓門の上部は櫓で、格子窓や狭間・石落が設けられた頑強な造りになっている。現在の門は平成11年(1999年)に復元された。

17:00-17:00

松本神社

松本市

「松本神社」を   >

松本神社の創建は寛永13年(1636年)。前身は松本城主松平康長と松姫の子、虎松を祀る暘谷大神社であった。後に今宮八幡、片宮八幡、共武神社、淑慎神社と合祀、1953年若宮八幡との合祀を期に松本神社と改められた。

17:00-17:00

カトリック松本教会

カトリック松本教会は松本城公園のすぐそばにある。松本でのカトリック宣教は1880年(明治13年)に開始。教会の基礎が築かれたのは、1890年(明治23年)であった。

忠臣蔵史跡、三峯神社(秩父市)、安曇野ちひろ美術館、松本城と付近の城址へ

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