1. 宿・ホテル予約TOP >  みんなの旅行記 >  旧中仙道を日本橋から下諏訪宿まで

Shotaさんの群馬県〜長野県の旅行記

旧中仙道を日本橋から下諏訪宿まで

  • 一人
  • 1人
  • 温泉
  • 史跡・歴史
  • 格安旅行
  • その他

都内で治療・診察をすませ、日本橋から旧中仙道の宿場を辿りながら、周辺の神社、古刹、城址などを訪ねて下諏訪宿まで・・・。途中、早朝に降った雪が残る処もあったが、無事帰還。

歴史ツウ Shotaさん 男性 / 70代

1日目2024年3月8日(金)
10:00-13:00

さかもと治療院(碑文谷)・しのみやクリニック(秋葉原)

さかもと治療院(骨治療・オステオパシー)で腰と前立腺の治療。しのみやクリニックで診察と処方。主治医が受けられた腰の手術が、内視鏡を使った心臓外科医によるものと伺って驚愕!

日本橋雪之曙

「木曽街道続ノ壱 日本橋雪之曙」渓斎英泉作「夜中ずっと降っていた雪が上がり、一面真っ白な世界である。・・・右端には道中合羽の人物が見える。木曽街道への旅をここから始めた作者渓斎英泉が、自身を描いていのではないかとも言われている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

13:00-13:00

日本国道路元標

中央区

「日本国道路元標」を   >

慶長9年(1604年)五街道の起点と定められた日本橋。明治期に入ると橋の中央が全国の国道の起点と定められた。車道中央には、総理大臣・佐藤栄作による文字が刻まれたブロンズ製の元標が埋め込まれており、「元標の広場」にはそのレプリカが展示されている。

14:00-14:00

滝野川八幡神社(北区)

滝野川八幡神社の創建は、一説には建仁2年(1202年)といわれているが、不明である。滝野川村の鎮守であって、応神天皇を主祭神とする。

14:00-14:00

滝野川八幡神社

本殿は総檜造り。向拝には注連縄が彫られている。

14:00-14:00

滝野川八幡神社 ムクノキ

神木のムクノキは板根をしっかり広げている。

板橋之驛

「木曽街道 板橋之驛」渓斎英泉作「最初の宿場である板橋宿の近くにあった庚申塚付近が描かれている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

14:00-14:00

いたばし観光センター

板橋区

「いたばし観光センター」を   >

板橋宿本陣付近の商店街。 「1843年の『中山道宿村大概帳』によれば、板橋宿内家数は573軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠54軒で宿内人口は2448人であったとされる。」『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

蕨之驛

「木曽街道 蕨之驛 戸田川渡場」渓斎英泉作「2番目の宿である蕨宿の近くにあった戸田川渡場が描写されている。対岸に見える戸田村が渡船権を持っていた。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

15:00-15:00

蕨宿址(蕨市)

「蕨宿は江戸に近い為、素通りの旅人が多かったが、戸田の渡しを控え、一旦川留めになると大いに賑わった。」上記資料によると「宿内家数は430軒うち本陣2、脇本陣1、問屋場1、旅籠23軒、宿内人口は2223人であった。」『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

15:00-15:00

調神社

さいたま市浦和区

「調神社」を   >

調(つき)神社の創建は第9代開化天皇期と伝わる。天照大神、豊宇気姫命、素戔嗚尊の三柱を祭神とする。

15:00-15:00

調神社 本殿 向拝

権現造りの本殿には見事な龍の向拝。

浦和之驛

「支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望」渓斎英泉作「浦和宿は、江戸時代に整備され、栄えていた宿場町である。・・・焼米が名物の茶屋があり、奥には煙を上げる浅間山と浦和宿が描かれている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

15:00-15:00

さいたま市立博物館

さいたま市大宮区

「さいたま市立博物館」を   >

さいたま市役所通りに建つ道標。浦和宿の宿内家数は273軒、うち本陣1、脇本陣3、旅籠15、問屋場1、高札場1、自身番所1軒、宿内人口は1230人で、天領であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

大宮之驛

「木曽街道 大宮宿 富士遠景」渓斎英泉作「宿場の場所は・・・さいたま市大宮区にあたる。青面金剛の庚申塔の前には老農夫と孫がおり、丹沢山塊の上に富士山を見ることができる。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

16:00-16:00

大宮宿址(大宮区)

大宮宿のあった大宮中央商店街。「大宮宿は氷川神社の門前町として発達した。」宿内家数は319軒、うち本陣1、脇本陣9、問屋場4、旅籠25軒、宿内人口1508人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

上尾之驛

「木曽街道 上尾宿 加茂之社」渓斎英泉作「加茂大明神の幟の隣には、立場茶屋と農家があり、唐箕を使って籾を精選する農民が描かれている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

16:00-16:00

上尾宿(上尾市)

「上尾宿は川越、岩槻を控え、近郷の遊興地で飯盛旅籠が多かった。」宿内家数182軒、うち本陣1、脇本陣3、問屋場1、旅籠41軒、宿内人口は793人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

桶川之驛

「岐阻街道 桶川宿 曠原之景」渓斎英泉作「農家の庭先で麦の穂をこぐ農夫に、旅人が加納天神への道を尋ねている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

17:00-17:00

桶川宿本陣遺構

桶川市

「桶川宿本陣遺構」を   >

「桶川宿は紅花の産地として繁盛し紅花は京に送られた。藍の栽培も盛んで『武州藍』と呼ばれ江戸に送られた。」宿内家数は347軒、本陣1、脇本陣2、旅籠36軒、宿内人口は1444人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

17:00-17:00

桶川 「滋味」碑(桶川市)

緑茶に関する研究によってビタミンC、カテキンを発見し、渋み成分タンニンの抽出に成功した研究者・辻村みちよを顕彰する「滋味」碑。

鴻巣之驛

「岐阻街道 鴻巣 吹上富士遠望」渓斎英泉作「人家が途絶え、榎が植わる縄手を旅人が行く姿と、遠くに見える雪に覆われた富士山を描く。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

17:00-18:00

鴻巣宿(鴻巣市)

「鴻巣の地名は『国府の洲』や『高洲』そして鴻の宮(鴻神社)の鵠鳥伝説に由来している。」宿内家数は566軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠58軒、宿内人口は2274人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

18:00-18:00

めん工房 久良一(鴻巣市)

鴻巣市内で何軒か廻って辿り着いた「めん工房 久良一」。まず「せいろ」を・・・。のど越しがいい、結構。つづいて「天ぷらそば」を・・・。こちらは出汁が少し濃すぎたかな・・・。

2日目2024年3月9日(土)
00:00-07:00

北本天然温泉 ハナホテル北本(北本市)

天然温泉に入れるビジネスホテル。温泉にゆっくり浸かって、きれいな部屋でよく休んだ。簡単な朝食を済ませて出発。

07:00-07:00

小谷城址(鴻巣市)

小谷(こや)城は小宮山内膳の居城であったと伝わる。『日本城郭大系 5』城址には曹洞宗の慈眼山寶勝寺が建つ。

07:00-08:00

さきたま古墳公園

行田市

「さきたま古墳公園」を   >

埼玉古墳群は、昭和13年(1938年)史跡の指定を受け、同42年(1967年)「さきたま風土記の丘」として整備が始められた。丸墓山古墳は日本一の規模の円墳とされている。

07:00-08:00

さきたま古墳公園

古墳群との調和の取れた鑑賞、保護そして散策を目的とする公園の整備が進められている。

熊谷宿

「岐阻道中 熊谷宿 八丁堤ノ景」渓斎英泉作 「権八地蔵と八丁の長さがある熊谷堤を右に描き、左の立場茶屋では馬子が憩う。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

08:00-08:00

熊谷宿址(熊谷市)

熊谷上宿集会所と左が焔魔堂。 日本橋から8番目の宿場。「熊谷宿は忍藩領で陣屋が置かれた。」宿内家数は1715軒、うち2軒が本陣、1軒が脇本陣、42軒が旅籠で宿内人口は3263人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

08:00-08:00

常光院(埼玉県熊谷市)

熊谷市

「常光院(埼玉県熊谷市)」を   >

龍智山毘慮遮那寺常光院は建久3年(1192年)、鎌倉御家人・中条家長開基になる天台宗の古刹である。

08:00-08:00

常光院(埼玉県熊谷市)

熊谷市

「常光院(埼玉県熊谷市)」を   >

本堂は元禄5年(1692年)再建。木造平屋建書院作りで茅葺き。元々中条家の屋敷であったことから、土塁や堀が残っている。

08:00-08:00

常光院(埼玉県熊谷市)

熊谷市

「常光院(埼玉県熊谷市)」を   >

「たっぷりと 鳴くやつもいる 夕ひぐらし」と詠んだ金子兜太の句碑が境内にある。

深谷之驛

「岐阻街道 深谷之驛」渓斎英泉作「9番目の宿場、深谷宿は中山道で最大規模の宿場で、商人や飯盛女が多く、遊郭もあった。飯盛旅籠で賑わう深谷宿の桝形が描かれている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

09:00-09:00

旧中山道(埼玉県深谷市)

深谷市

「旧中山道(埼玉県深谷市)」を   >

「深谷は深谷城の城下町として栄えたが、江戸期に入ると廃城になった。」宿内家数は525軒、うち1軒が本陣、4軒が脇本陣、80軒が旅籠で宿内人口は1928人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

09:00-09:00

深谷駅(深谷市)

深谷駅舎。平成8年(1996年)東京駅丸の内駅舎が深谷産の煉瓦を使用していることにちなんで、デザインされ改装された。

09:00-09:00

旧渋沢邸「中の家」

深谷市

「旧渋沢邸「中の家」」を   >

深谷は渋沢栄一生誕の地であり、旧渋沢邸「中の家(なかんち)」主屋は栄一の妹夫妻が上棟したもの。深谷駅前広場に渋沢の像が立つ。

09:00-10:00

岡廼宮神社(岡部町)

岡廼宮神社は、荒廃した岡村の鎮守、聖天社を徳川忠長(家光の弟)の側近、池田三郎左衛門貞長が江戸初期に改築したとされる。

09:00-10:00

岡廼宮神社

こじんまりした本殿の向拝は色彩豊かな龍である。

09:00-10:00

岡廼宮神社

本殿の脇に回ってみると、壁面、手挟(たばさみ)に丁寧な彫物が見られた。

本庄宿

「岐蘇路ノ驛 本庄宿 神流川渡場」渓斎英泉作「橋と舟渡しで越える神流川の両岸に灯篭が建ち、遠景に上毛三山を描く。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

10:00-10:00

田村本陣門

本庄市

「田村本陣門」を   >

石材店の玄関に立つ指標。10番目の宿場である「本庄宿は利根川の舟運や交通の要衝を控え、二と七の日に市が立ち賑わった。」宿内家数は1212軒、うち2軒が本陣、2軒が脇本陣、70軒が旅籠で宿内人口は4554人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

10:00-10:00

金讃神社(本庄市)

金讃(かなさな)神社の創建は、日本武尊が東征の際、天照大神と素戔嗚尊を祀ったのが始まりと伝わる。

10:00-10:00

金讃神社(本庄市)

本殿はなく、拝殿・中門からなっており、神体山である御室山を直接拝する。

10:00-10:00

金讃神社大門(本庄市)

金讃神社の別当寺、金讃山威徳院白連寺の総門。文化11年(1814年)建立と伝わる。

10:00-10:00

金讃神社(本庄市)

金讃神社大門の向拝。丁寧で迫力のある龍である。

10:00-10:00

金讃神社大門(本庄市)

木鼻も細やかかつ堂々とした彫りだ。

新町宿

「木曾海道六拾九次之内 新町」歌川広重作「右に弁天橋、左遠景に赤城山を描く。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

11:00-11:00

新町宿(高崎市)

明治天皇の行幸記念公園に建つ石標。11番目の「新町宿は上野七宿の東口にあたり、神流川の渡しを控え」ていた。宿内家数は407軒、うち2軒が本陣、1軒が脇本陣、43軒が旅籠で宿内人口は1473人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

倉賀野宿

「木曾街道 倉賀野宿 烏川之圖」渓斎英泉作「烏川を舟や筏が江戸へ下り、用水では子供達が水遊びに興じている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

11:00-11:00

倉賀野宿(高崎市)

12番目の倉賀野宿は「1883年に鉄道が敷設されるまでは、東京や信越地方を結ぶ水運の川岸舟場として栄えた。」宿内家数は297軒、そのうち1軒が本陣、2軒が脇本陣、32軒が旅籠で宿内人口は2032人であった。『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

11:00-11:00

倉賀野城址(高崎市)

倉賀野城は応永期(1400年頃)上杉憲政の重鎮で武蔵児玉党一派の倉賀野頼行が築いたとされる平城。郭、堀、土塁が残る。『日本城郭大系 4』現在は小さな公園になっている。

高崎宿

「木曾海道六拾九次之内 高崎」歌川広重作「真正面に烏川、左に碓氷川、奥には榛名山が描写されている。川が合流する地には、見晴らしの良い茶屋があり、旅人が遠くの榛名山を眺望している。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

11:00-11:00

高崎宿(高崎市)

13番目の高崎宿は「三国街道、信州街道の分岐にあたり大いに賑わい『お江戸見たけりゃ高崎田町』とうたわれた。」宿内家数は837軒、本陣、脇本陣なし、旅籠のみ15軒、宿内人口は3235人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

11:00-12:00

高崎城址

高崎市

「高崎城址」を   >

高崎城は慶長3年(1598年)井伊直政が家康の命により築いた平城。小山から関ケ原の戦に向かう秀忠の大軍が三日間滞在したこともあるという。郭、堀、虎口址、乾櫓などが残る。『日本城郭大系 4』

板鼻宿

「木曾海道六拾九次之内 板鼻」渓斎英泉作「碓氷川の川止めが多く、中山道上州七宿の中では最大級の宿場。 雪の降り止んだ松並木の街道から宿場用水の石橋を渡り、旅人が宿場に出入りする姿が描かれている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

12:00-12:00

板鼻宿

安中市

「板鼻宿」を   >

「14番目の板鼻宿は、日本橋より28里24町40間(約112.7km)、京より107里7町20間(約421km)の距離。宿内家数312軒、そのうち1軒が本陣、1軒が脇本陣、54軒が旅籠で、宿内人口は1422人であったとされる。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

12:00-12:00

皇女和宮資料館(安中市)

資料館内部写真。文久元年(1861年)板鼻宿本陣の書院に、孝明天皇の妹和宮が江戸に向かう途中宿泊。その書院が移築保存され資料館になっている。

13:00-13:00

板鼻城址(安中市)

板鼻城は永禄期(1567年頃)信玄が築き、依田肥前守(六郎)を置いたとされる丘城。『日本城郭大系 4』

案中宿

「木曾海道六拾九次之内 案中(安中)」歌川広重作「片側が谷の坂道を進む大名行列を描く。峠には梅林があり、農家の庭で農婦が梅を干している。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

13:00-13:00

安中宿(安中市)

「15番目の安中宿は、安中駅の西、碓氷川と九十九川の間の台地上にあった。宿内家数は64軒、そのうち1軒が本陣、2軒が脇本陣、17軒が旅籠で宿内人口は348人であったとされる。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

13:00-13:00

旧安中藩武家長屋・郡奉公役宅

安中市

「旧安中藩武家長屋・郡奉公役宅」を   >

安中城は永禄2年(1559年)上杉麾下の安中忠政が築いた平城。郭、堀址、虎口址が残る。『日本城郭大系 4』

13:00-13:00

新島襄旧宅

安中市

「新島襄旧宅」を   >

新島襄旧宅。廃藩置県が実施された際、安中藩江戸屋敷から引き上げる藩士を収容するために急造された屋敷の一軒である。

13:00-13:00

新島襄旧宅

安中市

「新島襄旧宅」を   >

新島は元治元年(1864年)に渡米、アマースト大学、アンドーヴァー神学校に学び明治8年(1875年)に帰国、同志社英学校設立までの間、この地でキリスト教布教活動を行った。

13:00-13:00

新島襄旧宅内部

新島ゆかりの遺品や関係書類、写真などが展示されており、自由に見学できる。

13:00-13:00

榎下城址(安中市)

榎下(えげ)城は上杉麾下の安中忠清が大永5年(1525年)に築いた平城。二重堀が残る。『日本城郭大系 4』

松井田宿

「木曾海道六拾九次之内 松井田」歌川広重作「米宿と呼ばれた松井田宿に米俵を運ぶ馬子、坂道の大木の下に祠、遠景に妙義山を描く。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

14:00-14:00

松井田宿

安中市

「松井田宿」を   >

松井田宿金井本陣の一部が残っている。16番目の松井田宿「には信州諸藩の年貢米が集積され、江戸廻米の中継地になっていた。」宿内家数は252軒、うち2軒が本陣、2軒が脇本陣、14軒が旅籠で宿内人口は1009人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

坂本宿

「木曾海道六拾九次之内 坂本」渓斎英泉作「17番目の坂本宿は、中山道有数の難所であった碓氷峠の東の入口にあたり、最盛期には40軒の旅籠がある比較的大きな宿場であったといわれる。・・・特異な山容の刎石山を背景にした坂本宿の鳥観図。街道中央を宿場用水が流れている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

14:00-14:00

坂本宿

安中市

「坂本宿」を   >

復元された坂本宿の木戸。宿内家数は162軒、うち2軒が本陣、2軒が脇本陣、40軒が旅籠で宿内人口は732人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

14:00-14:00

坂本宿 かぎや

「かぎや」は宿内の代表的な建物。高崎藩納戸役鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住、旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を「かぎや」とつけたとされる。

軽井澤宿

「木曾海道六拾九次之内 軽井澤」歌川広重作「18番目の軽井沢宿は、中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六拾九次で最も繁栄した宿場だったといわれる。さびれた貧しい寒村と山々を背景に、馬と馬子が客を乗せており、たき火で旅人がキセルに火をつけている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

15:00-15:00

軽井沢宿(軽井沢町)

軽井沢宿址、離れ山通りと軽井沢本道りの交差点に建つ電話ボックス。宿内家数は119軒、うち1軒が本陣、4軒が脇本陣、21軒が旅籠で宿内人口は451人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』  英国宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが1888年、この地に別荘を構えたのを機に避暑地として脚光を浴びる。

沓掛之驛

「木曾街道 沓掛ノ驛 平塚原雨中之景」渓斎英泉作 沓掛宿は19番目の宿場である。「『沓掛』の名は、難所であり荒天時は人も荷も足止めされた碓氷峠の入口であることから来ている。浅間おろしの風雨の中、沓掛宿へ向かう旅人と牛で荷を運ぶ農民が描かれている。」 『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

15:00-15:00

沓掛宿(軽井沢町)

沓掛宿本陣址付近の商店街。「沓掛塾は両隣の軽井沢宿および追分宿と共に浅間三宿と呼ばれて繁栄した。宿内家数は166軒、そのうち1軒が本陣、3軒が脇本陣、17軒が旅籠で宿内人口は502人であったとされる。」 『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

追分宿

「木曾街道 追分宿 浅間山眺望」渓斎英泉作「20番目の追分宿は、元禄時代には旅籠71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほどに繁栄した宿場。荷駄を運ぶ馬や人が、迫力ある浅間山の麓を駆け足で通っている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

15:00-15:00

追分宿

軽井沢町(北佐久郡)

「追分宿」を   >

追分宿郷土館には宿場に関する資料等が展示されている。「追分宿内家数は103軒、そのうち1軒が本陣、2軒が脇本陣、35軒が旅籠で宿内人口は712人であったとされる。」 『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

小田井宿

「木曾海道六拾九次之内 小田井」歌川広重作「本堂造立の旗を持った勧進僧と3人連れの巡礼が、淋しく孤独な旅路を続けているようである。薄の穂先の広がりを色を使わず墨で描き、全体の色をおさえているところが絵の情感を盛り上げている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

16:00-16:00

小田井宿(御代田町)

小田井宿本陣址付近の筆塚。「21番目の小田井宿は姫君、側女等が頻繁に利用したことから『姫の宿』とも呼ばれた。本陣・脇本陣が各1軒、旅籠が約5軒あった。」 『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

岩村田宿

「木曽道中 岩村田」渓斎英泉作 岩村田宿は22番目の宿場。「杖を手に持った盲人たちが争っている、激しい場面であり、佐久平の広い平野の右奥に八ヶ岳が見える。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

16:00-16:00

岩村田宿(佐久市)

岩村田宿の提灯が掛かった商店街。「岩村田藩1万5千石の城下町であり商業の町であったが、本陣が無く旅籠も最盛期で8軒と少なかった。・・・宿内家数は350軒、本陣、脇本陣はなく、旅籠が8軒で宿内人口は1637人であったとされる。」 『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

塩名田宿

「木曾海道六拾九次之内 塩なた」歌川広重作「23番目の塩名田宿の西側にあった千曲川渡舟場の様子である。裸であったり、菰で体を包んでいる様子は滑稽である。しかし一方で、人の少ない渡し場の風景は哀れな風情を感じさせる。閑散とした茶屋と川面の間の一本の木が調和を取っている。信濃路の情緒を表現しており、旅情が感じられる。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

16:00-16:00

塩名田宿本陣址(佐久市)

塩名田宿の「宿内家数は116軒、そのうち2軒が本陣、1軒が脇本陣、7軒が旅籠で宿内人口は574人であったとされる。」 『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

16:00-16:00

塩名田宿本陣址

塩名田宿の問屋本陣であった建物が残っている。

八幡宿

「木曾海道六拾九次之内 八幡」歌川広重作「24番目の八幡宿は、千曲川の西岸にあたり、塩名田宿との距離は1里(約3.9km)もない。しかし、川止めになったときの待機地として、また米の集散地として慶長期に整備されたという。旅人と村人が、宿はずれの曲流する小川に架かる橋を行きかっている。竹藪の背後にあるのは浅間山である。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

17:00-17:00

八幡宿本陣跡

佐久市

「八幡宿本陣跡」を   >

八幡宿の本陣址。「八幡の地名は宿内の八幡神社に由来する。」宿内家数は143軒、うち1軒が本陣、4軒が脇本陣、3軒が旅籠で宿内人口は719人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

望月宿

「木曾海道六拾九次之内 望月」歌川広重作「25番目の望月宿の付近にあった瓜生峠が描写され、大きな松並木を行きかう旅人たちを満月が照らしだしている。『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

17:00-17:00

望月歴史民俗資料館

佐久市

「望月歴史民俗資料館」を   >

「奈良平安時代、この地には御牧(御料牧場)が置かれ、毎年旧暦八月十五日の満月の日(望月)に朝廷に馬が献上され、これが地名の由来になっている。」宿内家数は82軒、うち1軒が本陣、1軒が脇本陣、9軒が旅籠で宿内人口は360人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

芦田宿

「木曾海道六拾九次之内 あし田」歌川広重作「26番目の芦田宿は、難所であった笠取峠の東の入口にあり、生糸の産地であった。笠取峠の松並木と起伏の激しい峠道を、大胆かつ抽象的なカーブで表現している。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

17:00-17:00

旧芦田宿本陣土屋家住宅

立科町(北佐久郡)

「旧芦田宿本陣土屋家住宅」を   >

芦田宿の本陣土屋家住宅が残っている。「宿内家数は80軒、そのうち1軒が本陣、2軒が脇本陣、6軒が旅籠で宿内人口は326人であったとされる。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

中山道 長久保宿

長和町(小県郡)

「中山道 長久保宿」を   >

「木曾海道六拾九次之内 長久保」歌川広重「広重三大傑作の一つとされている。ともに難所であった和田峠と笠取峠との間にあって、最盛期には旅籠が50軒近くある比較的大きな宿場だったもよう。宿の近くにある依田川河畔の図である。ここから見える浅間山は、街道を行く旅人にとって見納めであった。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

17:00-17:00

長久保宿

長久保宿の本陣と高札場址。 「宿の東に笠取峠、西に難所和田峠を控え、大門道、大内道、北国街道の要衝であり大いに賑わった。」宿内家数は187軒、うち1軒が本陣、1軒が脇本陣、43軒が旅籠で宿内人口は721人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』

和田宿

「木曾海道六拾九次之内 和田」歌川広重作「峠の山道が描かれているが、雪が緑に覆いかぶさっており、旅路がいかに厳しいかを物語っている。中山道のみならず、五街道最大の難所であった。おそらく夕方、昼の日差しで雪がとけたあとの情景を描いたと考えられる。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

18:00-18:00

中山道 和田宿本陣

長和町(小県郡)

「中山道 和田宿本陣」を   >

和田宿には立派な本陣が残っている。「28番目の和田宿は難所だった和田峠の入口にあたり、標高820メートル余りの高地にある静かな山里に位置していた。宿内家数は126軒、そのうち1軒が本陣、2軒が脇本陣、28軒が旅籠で宿内人口は522人であったとされる。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

下諏訪宿

「木曾海道六拾九次之内 下諏訪」歌川広重作「古くは鎌倉時代から温泉の利用が確認されており、中山道唯一の温泉のある宿場ある。旅籠での夕食や入浴の状況が描かれている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

18:00-18:00

下諏訪宿本陣 岩波家

下諏訪町(諏訪郡)

「下諏訪宿本陣 岩波家」を   >

下諏訪に残る、宿本陣 岩波家。「29番目の下諏訪宿は難所であった和田峠の西の入口として、諏訪大社下社の門前町として繁栄した。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

18:00-18:00

下諏訪町立歴史民俗資料館(宿場街道資料館)

下諏訪町(諏訪郡)

「下諏訪町立歴史民俗資料館(宿場街道資料館)」を   >

「下諏訪宿の宿内家数は315軒、そのうち1軒が本陣、1軒が脇本陣、40軒が旅籠で宿内人口は1345人であったとされる。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』

20:00-21:00

駒ケ岳パーキング(上り)

疲れたので駒ケ岳 PA で「きつねそば」をいただいて、しばし休憩。

旧中仙道を日本橋から下諏訪宿まで

1日目の旅ルート

みんなのコメント(12件)

投稿する

投稿に際しては、必ず観光ガイドご利用規約をご確認ください。
皆様がより快適にご利用いただくための「投稿上のルール」や、
投稿内容の利用に関して記載しております。

閉じる

この旅行記は参考になりましたか?参考になった!4

この旅行記をもとに旅の計画をつくる
この旅行記をカスタマイズして、あなたの旅の計画を作りましょう

Shotaさんの他の旅行記

(C) Recruit Co., Ltd.