Shotaさんの長野県〜京都府の旅行記

旧中仙道を塩尻宿から京三条大橋まで
- 1日目2024年3月16日(土)
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08:00-08:00
「木曾街道 塩尻嶺 諏訪ノ湖水眺望」渓斎英泉作 「江戸・日本橋から30番目にあたる宿場である。左側には八ヶ岳、中央には富士山が見られる。また、凍った湖面を人馬が渡っている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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08:00-08:00
塩尻宿址
塩尻宿本陣址。 「塩尻宿は伊那街道(三州街道)、五千石街道(糸魚川街道)、松本街道(善光寺四街道)の要衝で、東に塩尻峠を控え大いに賑わった。宿内家数は166軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠75軒で宿内人口は794人であった。」『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』
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08:00-09:00
「木曾街道六拾九次之内 三拾弐 洗馬」歌川広重作 「『洗馬』は特に格調が高い作品として知られている。柳の間に満月を見ることができる。船頭が木材を積んだ船をこぐ姿は日常のゆったりとした雰囲気を醸し出している。また、川の奥行を表現するために、多くのぼかしを用いている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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08:00-09:00
洗馬宿址
木曽街道31番目の洗馬宿本陣址。 「北陸の鮭や鰤を煮込んだ『洗馬煮』が名物であった。」宿内家数は163軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠29軒で宿内人口は661人で、当初松本領であったが、享保10年(1725年)幕府直轄領となった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』
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09:00-09:00
「木曾街道六拾句次之内 本山」歌川広重作 「樵や、竹籠を背負った子供達が、倒れかけた大木の下でひと休みしている。山国の生活に着目して描かれている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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09:00-09:00
本山宿本陣址
木曽街道32番目、本山宿の本陣が残っている。「木曽路の玄関口として賑わい、松本藩の木曾口の固めとして口留番所が置かれた。」宿内家数は117軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠34軒で宿内人口は592人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』
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09:00-09:00
「木曾街道六拾句次之内 贄川」歌川広重作 「右に帳簿を持った宿役人、二階にくつろぐ客など、繁忙期の旅籠の様子を描写したものである。」宿内家数124軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で宿内人口は545人であった。『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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09:00-09:00
贄川関所は宿場の北の入口にあった。「番所が復元されている。木曽路は尾張藩領で、本山宿の松本藩との境界にあたるため、北口に福島関所の副関所が置かれ、『入りで鉄砲に出女』や『木曽五木』の搬出を厳しく取り締まり、尾張藩の『北番所』とも呼ばれた。」『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』
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09:00-09:00
「岐阻街道 奈良井宿 名産店之圖」歌川広重作 「ここでは藪原宿や奈良井宿の名産であった六櫛屋をとらえており、鳥居峠へと街道が続いていく。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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09:00-09:00
木曽街道34番目の奈良井は「桧物細工、漆器、塗櫛等の木工業が盛んで『奈良井千軒』といわれ『木曽の奈良井か藪原か、麦もとらずに飯をたく』といわれた。」宿内家数は409軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠10軒で宿内人口は2,155人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』
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09:00-09:00
奈良井宿
「宿並は国の『重要伝統的建造物群保存地区』に選定され、往時の面影を色濃く残している。」『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 東』 道幅は広くはなく、旅籠などの家並みが維持・管理されている。
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10:00-10:00
藪原宿(木祖村)
「木曾街道 藪原 鳥居峠硯ノ清水」渓斎英泉作 「鳥居峠は木曽路最大の難所の一つと言われていたが、頂上からの眺めは絶景であった。南には駒ケ岳、西に御嶽山、眼下には木曽川の清流が見える。難所を超えて、宿場へと向かう旅人と柴を刈り、帰路につく女人の2人が描かれている。」宿内家数は266軒、うち1軒が本陣、1軒が脇本陣、10軒が旅籠で宿内人口は1,493人。『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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10:00-10:00
「義仲館」は木曽町にゆかりを持つ木曽義仲や巴御前の存在を後世に継承することを目的に平成4年(1992年)開館した資料館。謎の多い義仲の生涯に関わる記録の蒐集に努めている。
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10:00-10:00
「木曾海道六拾九次之内 宮ノ越」歌川広重作 「この浮世絵は歌川広重三大傑作の一つである。『祭りの帰り』や『夜逃げの一家』などと解説されている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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10:00-10:00
宮ノ越宿本陣
本陣の建物・庭園が残っていてよく手入れされている。宮の越は木曽街道36番目の宿場である。宿場関連の史跡よりも、木曽義仲関連の史跡が多い。宿内家数は137軒、うち1軒は本陣、1軒が脇本陣、21軒が旅籠で宿内人口は585人であった。『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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10:00-10:00
「木曾海道六拾九次之内 福し満」歌川広重作 「柵に囲まれた関山の間に冠木門がある。旅人が番所の前で取り調べを受けているところである。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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10:00-10:00
福島宿 本陣址
木曽街道37番目の福島宿本陣址。「福島は戦国時代木曽氏の城下町であり、江戸時代になると代官山村氏の陣屋町となった。」宿内家数は158軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠14軒で宿内人口は972人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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11:00-11:00
上松宿(上松町)
「木曾海道六拾九次之内 上之松」歌川広重作 「土橋に立ち、旅人が小野の滝を眺めている。滝の前には祠と板葺き屋根の茶屋を見ることが出来る。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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11:00-11:00
上松宿址
上松宿の脇本陣址。木曽街道38番目の上松宿は「木曾五木の集散地で尾張藩はこの地に材木役所を設置し、『木一本首ひとつ』といわれるほど厳しい管理、取り締まりを行った。」宿内家数は362軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠35軒で宿内人口は2,482人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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11:00-11:00
「寝覚の床」は木曽川の水流によって花崗岩が浸食されてできた自然地形。上流に建設された木曽ダムなどによって水位が下がり、水底で浸食され続けていた花崗岩が水面上に表れている。
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11:00-12:00
寿伊舎(上松町寝覚)
シャレた名前の「寿伊舎」は「寝覚の床」を見下ろす位置にある蕎麦屋。さっそく「ざる」をいただく。蕎麦の味がしっかりする、それでいてのど越しがいい!満足!
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12:00-12:00
「木曾海道六拾九次之内 須原」歌川広重作 「突然の夕立にみまわれ、大杉の横にある御堂に駆け込んでいる駕籠かきや、雨宿りをしている旅人を描写している。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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12:00-12:00
木曽街道39番目の須原宿碑。「寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月いつるほとの 空たにもなし」と詠んだ子規の句が刻まれている。 「水に恵まれた宿内には丸太をくり抜いた水舟が随所に置かれ『水舟の里』とも呼ばれた。桜の花漬やとろろ汁が名物であった。」宿内家数は104軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠24軒で宿内人口は748人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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12:00-12:00
「木曽路駅 野尻 伊奈川橋遠景」渓斎英泉作 木曽街道「40番目の宿場、野尻宿に至る峠にあった伊奈川橋が描写されている。また、左上に岩出観音堂が見られる。」宿内家数は108軒、うち1軒が本陣、1軒は脇本陣、19軒が旅籠で宿内人口は986人であった。『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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12:00-12:00
「木曾海道六拾九次之内 三渡野」歌川広重作『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 三留野は41番目の宿場。「広重は、抒情的に捉え、画面左手に三留野の宿並、右手の小山の上に神明神社の鳥居、そして手前に麦畑を描いている。」『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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12:00-12:00
三留野宿址
三留野宿脇本陣址。「三留野はこの地に木曽氏の館があり、御殿と呼ばれたところを地名の由来としている。」宿内家数は77軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠32軒で宿内人口は594人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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12:00-13:00
妻籠城築城の年代については、沼田右馬介家仲が文永期(1264-75年)に築いたとか、木曽讃岐守家村が築いたなどとあるが、不明である。空堀・土塁が残る。『日本城郭大系 8』
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13:00-14:00
「木曾海道六拾九次之内 妻籠」歌川広重作 「妻籠峠から木曽川方面を望む画と思われる。行きかう旅人の年齢を腰の曲がり具合で表現している。峠に近づくと恵那山が見えてくる。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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13:00-14:00
妻籠宿
「妻籠宿は伊那街道との追分を控え賑わったが、明治になると主要交通路から外れた為に寂れてしまった。」そのために宿並が残り、重要伝統的建築物群保存地区となり、一躍脚光を浴びるこことなる。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』 旅籠を眺めながら歩いていると、まるまるした三毛が足元に・・・。「ミケちゃん、お散歩かい?」と声をかけると、小さく「ミャー」と返事をしてくれた。ホッコリ・・・
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13:00-14:00
宿場中心部に残る本陣は有料で公開されている。 宿内家数は83軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠31軒で宿内人口は418人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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14:00-14:00
馬籠陣場上展望台(中津川市)
「馬籠陣場上展望台」は馬籠宿の高札場から街道を上ったところにある展望台。馬籠宿方面を見下ろす眺望を楽しむことができる。敷地内に、藤村の『夜明け前』の一節を記した石碑が建つ。
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14:00-14:00
「木曽街道 馬籠驛 峠ヨリ遠望之圖」渓斎英泉作 「峠の下に馬籠宿、遠くには恵那山が描かれている。牛方の背後に描かれている滝は雄滝・女滝と思われるが、実際にははるか後方にある。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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14:00-14:00
木曽街道43番目の馬籠宿は「馬籠峠と十曲峠に挟まれた、狭隘の地に位置する。水理が悪く度々大火に見舞われ、明治28年(1895年)と大正4年(1915年)の大火で石畳以外は灰塵に帰した。」宿内家数は69軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠18軒で宿内人口は717人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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14:00-14:00
馬籠城址(中津川市)
馬籠城は、戦国末期まで美濃の遠山氏や木曽氏の支城であったとされているが、築城の詳細は分かっていない。
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14:00-14:00
「木曾海道六拾九次之内 落合」歌川広重作『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 「広重は画面の左下に落合橋、次いで御判形坂(下の桝形)、そして右上に落合宿を描いている。」『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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14:00-14:00
日本橋から44番目の落合宿、「名前の由来は恵那山に水源を持つ2つの川がここで落ち合うことから来ている。火縄の製造で生計を立てていたいたと言われる。」宿内家数75軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠14軒で宿内人口は370人であった。『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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14:00-15:00
「木曾海道六拾九次之内 落合」歌川広重作 「中津川を近景に置いて、宿場を眺める構図。手前に見える土橋と遠くに見える中津川宿の間は、人家のない縄手になっており、ジグザグの街道を旅人が行きかっている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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14:00-15:00
木曽街道45番目の中津川宿本陣址。「中津川宿は北に苗木城下、東に木曽の宿並を控え、物資の集散地として栄えた。」宿内家数は228軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠29軒で宿内人口は928人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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15:00-15:00
「木曾海道六拾九次之内 大井」歌川広重作 「雪の降る坂道を木曽駒に乗った旅人たちが進んでいる。遠くに見える白い山は御嶽山である。山も木も人も馬も全てが雪で覆われている。まるで時が止まってしまったかのような作品。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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15:00-15:00
日本橋から46番目の大井宿本陣址。「大石宿は西に難所十三峠を控え、岩村街道、秋葉道、下街道と交差し、善光寺、伊勢神宮、熱田神宮への参拝客、尾張へ向かう商人や牛馬荷物の往来で賑わい、美濃十六宿中で最も繁栄した。」宿内家数は110軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠41軒で宿内人口は466人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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15:00-15:00
「中山道広重美術館」は平成13年(2001年)開館。歌川広重を中心に、歌川国芳らの浮世絵約1,500点を収蔵する。地元の実業家・田中春雄のコレクションの寄贈を受けたものが多い。
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15:00-16:00
「木曾海道六拾九次之内 大久手(大湫)」歌川広重作 「大久手宿を出て少し歩いたところの、母衣(ほろ)岩とえぼし岩を描いており、柴を背負った夫婦が通る。ほのぼのとした情景描写と、切り立った崖と突き出た巨岩の表現が巧み。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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15:00-16:00
木曽街道47番目の大湫宿は「東に十三峠、西に琵琶峠を控え、小宿ながら旅籠は多かった。」宿内家数は66軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠30軒で宿内人口は338人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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16:00-16:00
「木曾海道六拾九次之内 細久手」歌川広重作 「三人の地元の者、刀の柄に水筒を掛けた武士と振り分け荷物を肩にした旅人の姿をうまく表現した構図となっている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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16:00-16:00
細久手宿址
木曽街道48番目の細久手宿本陣址。「大湫宿から御嶽宿までは四里三十町(約19km)と長く、その間には琵琶峠、物見峠が控え人馬共に難渋を極めた。そこで慶長15年(1610年)に新設された。」宿内家数は65軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠24軒で宿内人口は256人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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16:00-16:00
御嵩城址(御嵩町)
御嵩城築城の詳細は不明であるが、城主は小栗信濃守と伝える。『日本城郭大系 9』 城址は城址公園になっている。
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16:00-16:00
「木曾海道六拾九次之内 御嶽」歌川広重作 「謡坂(うたふざか)にあった立場茶屋を木賃宿として描き、軒に御嶽講の行燈を掛ける。囲炉裏鍋を囲んでいる旅人たちの姿態がおもしろい。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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16:00-16:00
御嶽宿本陣址の観光センター。日本橋から49番目の御嶽宿は「願興寺(蟹薬師)の門前町として栄え、東に細久手、大湫への難所を控え大いに賑わった。」宿内家数は66軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠28軒、宿内人口は600人で尾張藩領であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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16:00-17:00
「木曾海道六拾九次之内 伏見」歌川広重作『広重 英泉 木曽街道六拾九次』「広重は犬山道にあった伏見大杉(中恵土杉)を伏見として描いている。樹齢千年といわれたこの大杉は昭和9年(1934年)の室戸台風で倒れてしまった。」『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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16:00-17:00
木曽街道50番目の伏見宿本陣址。「伏見宿は木曽川の新村湊を控え、荷の集積地として賑わい、『太田の渡し』が川止めになると旅人であふれた。」宿内家数は82軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠29軒で宿内人口は485人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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17:00-17:00
「木曾海道六拾九次之内 太田」歌川広重作 「大河となった木曽川を筏が尾張へ向け下り、対岸と連絡する渡し舟を旅人が待っている。流れが速いため、馬子唄に『木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい』と唄われている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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17:00-17:00
木曽街道51番目太田宿本陣の門。 「太田宿は太田の渡しと舟運を控え、飛騨街道、郡上街道の分岐点にあたり、大いに賑わった。」宿内家数は118軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠20軒、宿内人口505人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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17:00-18:00
「木曽街道 鵜沼ノ驛 従犬山遠望」渓斎英泉作 「『犬山城』と木曽川を隔てて、遠景に城に北面する木曽川河畔にある鵜沼宿を描く。川面に両岸を結ぶ鵜沼の渡し舟が見える。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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17:00-18:00
鵜沼宿址
日本橋から52番目の鵜沼宿址。 「鵜沼宿は古代から東山道の駅が置かれ交通経済の要衝であったが、明治24年(1891年)の濃尾大地震で壊滅的な被害を受けてしまった。」宿内家数は68軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠25軒で宿内人口は246人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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19:00-23:00
ホテル ニューたじま(各務原市)
「ホテル ニューたじま」は名鉄各務原線の「三柿野」駅に隣接というより、ほぼ構内にあるこじんまりしたビジネスホテル。年季が入っているなと思ったが、リフォームされていて気持ちがいい。遮音もしっかりしている。
- 2日目2024年3月17日(日)
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07:00-07:00
犬山城、時間が早かったので登城口付近からの遠望。 犬山城は天文6年(1537年)織田信康が築いた平山城。現存する12天守の一つであり、2004年まで成瀬家が所有していた。
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07:00-08:00
加納宿(岐阜市)
「木曾海道六拾九次之内 加納」歌川広重作 「大名行列が加納宿はずれを整然と行進し、旅人は土下座して待つ。松並木越しに加納城が覗く。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 木曽街道53番目の「加納宿の宿長は二十一町半(約2.4km)と長く、美濃十六宿中最大の宿場で、長良川の湊町そして城下町として栄え、熱田(名古屋)への御鯖街道追分を控え大いに賑わった。」宿内家数は805軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠35軒、宿内人口は2,728人で、尾張藩領宿高550石であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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07:00-08:00
加納城は二度築城されている。最初は、文安2年(1445年)美濃守護代斎藤利永によって、次いで家康が本多忠勝に命じて岐阜城を移した慶長6年(1601年)、奥平美作守信昌によるものである。本丸・外堀・石垣・土塁などが残る。『日本城郭大系 9』 かなり広い城址公園になっている。
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08:00-08:00
瑞甲山乙津寺は天平10年(438年)に行基が草庵を築いたのが始まりとされる、臨済宗妙心派の寺院。十一面千手観世音菩薩を本尊とする。 宝仏殿脇の堂に据えられている「福禄寿」。穏やかな表情に心がなごむ。
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08:00-08:00
河渡宿(岐阜市)
「岐阻路ノ駅 河渡 長柄川鵜飼船」渓斎英泉作 「長柄川で夜、鵜飼い漁をしているシーンが描かれている。遠景を陰影で表現する英泉一番の傑作。松尾芭蕉も『おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな』という一句を残した。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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08:00-08:00
河渡宿(岐阜市)
日本橋から54番目の河渡宿碑。 「河渡宿は長良川西岸の船着場で、米、塩、木材の物資集積地として栄えたが、川止め以外は通過の旅人が多く鄙びた宿であったともいう。」宿内家数は64軒、うち本陣1、脇本陣なし、問屋2、旅籠24軒、宿内人口は272人で幕府領宿高1,300石であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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09:00-09:00
「木曾海道六拾九次之内 みゑじ」歌川広重作 「日暮れの情景、高く成長し揺れ動く竹藪と空を舞う雀、地元の農夫に道を尋ねる旅人、そして彩りを添える二株の椿、広重ならではの情景描写が見られる秀作である。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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09:00-09:00
日本橋から55番目の美江寺宿本陣址。 「この名の由来は『美江寺観音』に由来すると言われている。戦国期、寺は岐阜へ移されたが地名のみが残った。」宿内家数は136軒、うち本陣1、脇本陣なし、旅籠11軒、宿内人口は582人、幕府領で、宿高1,300石であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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09:00-09:00
天神神社のあるこの場所は、垂仁天皇10年、倭姫命(やまとのひめのみこと)が4年間滞在し宮殿が建てられたとされ、伊久良河宮址と伝わる。
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09:00-10:00
杭瀬川は大垣城と赤坂の中間を流れる川。慶長5年(1600年)9月、この一帯で行われた関ケ原の戦いの前哨戦を杭瀬川の戦いと呼ぶ。家康軍が美濃赤坂に到着したところを三成の家老・島清興が奇襲攻撃し勝利を収めた。
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10:00-10:00
「木曾海道六拾九次之内 赤坂」歌川広重作 「杭瀬川に架かる土橋を旅人や傘を持った女性が渡り、対岸に宿入口の傍示杭と赤坂宿を描く。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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10:00-10:00
赤坂宿 本陣址
日本橋から56番目の赤坂宿本陣址は公園になっている。「赤坂宿は杭瀬川の舟運や谷汲街道、伊勢に通じる養老街道を控え、大いに賑わった。」宿内家数は292軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠17軒、宿内人口は1,129人、大垣藩領で宿高1,080石であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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10:00-10:00
「木曾海道六拾九次之内 垂井」歌川広重作 「左右対称に、奥行きの深さを感じさせる作品。今まさに雨の中大名行列が到着し、宿役人が出迎えている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 宿内家数は315軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒、宿内人口は1,179人で幕府領、宿高700石であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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10:00-11:00
垂井城は長江義景の次男昭義の孫行景を祖とする長屋氏の居城であったとされ、土岐氏に属した。築城の詳細は不明。『日本城郭大系 9』
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11:00-11:00
関ケ原宿(関ケ原町)
「木曾海道六拾九次之内 関ケ原」歌川広重作『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 「広重はのんびりとした西町の茶屋風景を描いている。藁屋根の軒には名物さとうもち(牡丹餅)と描かれた提灯が下がり、そばきり、うどんの看板を掲げ、商物の傘、扇、草履を描く。」『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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11:00-11:00
関ケ原宿
木曽街道58番目の関ケ原宿址脇本陣の門。 「関ケ原は伊吹山地と鈴鹿山系が迫る狭隘の地で軍事上の要衝であった。」宿内家数は269軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠33軒、宿内人口は1,389人で旗本竹中氏領であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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11:00-11:00
関ケ原まで来たので、関ケ原の戦い決戦地に。以前回った、笹尾山の石田三成陣、松尾山の小早川秀秋陣などをしばらく眺めていた。
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11:00-11:00
今須宿(関ケ原町)
「木曾海道六拾九次之内 今須」歌川広重作 「立場の家並が連続する中に傍示杭が建ち、寝物語由来の看板が掛かる。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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11:00-11:00
今須宿
木曽街道59番目の今須宿址。 「今須宿は妙応寺の門前町として発展し、琵琶湖から美濃への物資流通で賑わ」った。宿内家数は464軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠13軒、宿内人口は1,784人で幕府領、宿高1,500石であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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11:00-11:00
須川城址(米原市)
須川城は浅井家重臣・遠藤氏が築いたとされる平城。築城時期等は不明。城址には観音堂が建つ。
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11:00-12:00
「木曾海道六拾九次之内 柏原」歌川広重作『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 「広重は柏原として『伊吹もぐさ』を商う伊吹堂亀屋左京店を描いている。店の右手には大きな『福助人形』がある。福助は働き者の番頭であった。」『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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11:00-12:00
柏原宿(米原市)
木曽街道60番目の柏原宿址に残る旅籠。 「柏原宿は古くから東山道の宿駅として発展し、建久元年(1190年)頼朝が初上洛の際宿陣した。江戸時代は伊吹山から産出するよもぎを原料にした艾(もぐさ)が中山道有数の宿場名物であった。」宿内家数は344軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋6、旅籠22軒、宿内人口は1,468人で、幕府領、後に郡山領となった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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12:00-12:00
「木曾海道六拾九次之内 醒ケ井」歌川広重作 「大名行列の最後尾が一本松を通り過ぎ、茅葺屋根が数軒並んだ坂下の集落へ進んでいる。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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12:00-12:00
木曽街道61番目の醒井宿址。 「日本書紀の『日本武尊、伊吹山にて大蛇をふみて、山中雲切にあい給ひ、御心地なやましたりしが、此水をのみて醒めたまひぬとなん』から来ている。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 「名水の里として名を馳せ、清水が豊富で旅人の良き休憩地として賑わい、名水を使った『ところてん』や『素麺』が名物であった。」宿内家数は138軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋7、旅籠11軒、宿内人口は539人で、大和郡山藩領であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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12:00-12:00
大谷吉継首塚(米原市)
関ケ原の戦いにおいて、わずか600の手勢で1万1千の小早川軍を三度押し戻したという、西軍の猛将、大谷吉継の首塚。敗北を悟り近習、湯浅五助の介錯で自刃した吉継の首級を甥の僧祐玄が、敦賀への逃亡の途上この地に埋め隠したと伝わる。尚、関ケ原の大谷軍陣址近くの山中に、吉継と五助の墓が並んである。
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12:00-12:00
「木曾海道六拾九次之内 番場」歌川広重作 「摺針峠を下ると米原道との合流点・番場宿。石垣のある見付近くの宿を描く。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 木曽街道62番目の番場宿内家数は178軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋6、旅籠10軒、宿内人口は808人で彦根藩領であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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12:00-13:00
鳥居本宿(彦根市)
「木曾海道六拾九次之内 鳥居本」歌川広重作「京へ上る旅人が初めて琵琶湖を望む峠に、望湖堂をはじめ数軒の茶屋があった。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 「鳥居本の地名はかつて宿内にあった多賀大社の鳥居に由来している。朝鮮人街道や北国街道の分岐点、彦根城下に通じる要衝として栄えた。」宿内家数は293軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠35軒、宿内人口は1,448人、宿高115石で彦根藩領であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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13:00-14:00
そば処 百百百百(彦根市)
鳥居本町にある「十割手打 街道蕎麦 そば処 百百百百(どどもも)」 まず「せいろ」をたぐる。旨い!つづいて、女将に勧められて「天ぷら」、そして「かけそば」を・・・。カラっと揚がっていて結構! どこか敦賀や出石の蕎麦に似ているような・・・。
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14:00-14:00
園照寺(彦根市)
文政10年(1827年)建立の園照寺薬医門。園照寺は明応7年(1498年)高宮氏の重臣・北川九兵衛が建立した、浄土真宗本願寺派の寺院。
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14:00-14:00
「木曾海道六拾九次之内 高宮」歌川広重作 「老婆と娘が背丈にあまる丸い大きな荷を背負っている。宿の名産高宮布(麻)である。橋桁だけが描かれているいるのは、河原が干上がった犬上川とみられる。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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14:00-14:00
木曽街道64番目の高宮宿本陣址。 「高宮宿は多賀大社の門前町として栄えた。『お伊勢に参らばお多賀に参れ、お伊勢はお多賀の子でござる』といわれた。宿内には名産『高宮布』を扱う問屋や小売店が軒を連ねていた。」宿内家数は835軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠23軒、宿内人口は3,560人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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14:00-14:00
高宮城址(彦根市)
高宮城は高宮三河守の居城として知られ、六角・浅井の戦いではしばしば主戦場となった。『日本城郭大系 11』 城址には彦根市立高宮小学校が建つ。
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14:00-15:00
「木曾海道六拾九次之内 恵智川(愛知川)」歌川広重作 「標柱に『むちんはし はし銭いらず』と見える。当時の橋は有料が普通だったが、この橋は宿の商人数人の資金で架橋し、通行料を取らなかったので『無賃橋』と呼ばれた。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』
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14:00-15:00
木曽街道65番目の愛知川宿ふれあい本陣。 「愛知川は恵智川、越知川、愛智川とも書かれ、地名は宿の西外れを流れるこの川に由来する。中世東山道時代からの宿駅で、近江麻布の生産及び集散地として栄え、東海道土山宿への御代参街道を控え、賑わった。」宿内家数は199軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠28軒、宿内人口は929人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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15:00-15:00
東円堂城址(愛荘町)
東円堂城については「大洞弁天当国古城主名札」に東円堂村城主として名字不知とあり、詳細は不明。『日本城郭大系 11』
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15:00-15:00
日本の化学繊維市場の礎を築いたパイオニアの一人とされる、藤井彦四郎(1876-1956)が昭和9年(1934年)建築させた迎賓館。有料で公開されている。
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15:00-15:00
「木曾海道六拾九次之内 武佐」歌川広重作 「村役人が見守る中、舟橋を旅人や夫婦の巡礼が渡り、左奥の小屋では橋銭を徴収している。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 木曽街道66番目の「武佐宿は近くに近江商人の町である近江八幡があり、また伊勢に通じる八風街道の追分を控え、塩や海産物などの往来で賑わった。」宿内家数は183軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠23軒、宿内人口は537人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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16:00-16:00
長光寺本堂の向拝。 補陀洛山誕生院長光寺は聖徳太子建立と伝わる、高野山真言宗の古刹。
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16:00-16:00
鎌倉後期造営とされる楼門。御上(みかみ)神社は孝霊天皇6年、天之御影命が三上山山頂に降臨、三上山を神体として祀ったのが始まりとされる。社殿は藤原不比等が養老2年(718年)に造営した伝わる。本殿、拝殿ともに檜皮葺で入母屋造り。風格と味わいがある。
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16:00-17:00
「木曾海道六拾九次之内 守山」歌川広重作 「川沿いに茶屋が軒を連ね、周辺の山では桜が満開である。遠景は近江富士の三上山であろう。画面下に草津宿の屋根が覗き、中央に東海道との追分に建つ常夜燈を描く。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 「比叡山延暦寺の鬼門にあたる東方を守護するために東門院が建立され『比叡山を守る寺』から守山寺と名付けられ、守山の語源となった。」木曽街道67番目守山宿内家数は415軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠30軒、宿内人口は1,700人で宮津藩領であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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17:00-17:00
「木曾海道六拾九次之内 草津追分」歌川広重作『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 「広重は草津追分として、草津川の仮橋を両面手前に、画面中央には東海道と中山道の追分に立つ、木製常夜燈と草津の宿並を描いている。」『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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17:00-17:00
東海道と中山道の常夜指標。 日本橋から68番目の「草津宿は東海道との分岐点であり、琵琶湖舟運の矢橋湊へ至る矢橋街道との分岐点にあたり、交通の要衝として繁栄した。」宿内家数は586軒、うち本陣2、脇本陣2、旅籠72軒で宿内人口は2,351人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』 本陣の建物が復元・保持され、有料で公開されている。
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17:00-17:00
大津宿(大津市)
「木曾海道六拾九次之内 大津」歌川広重作 「日本橋から69番目の大津宿の札の辻越に琵琶湖を描く。琵琶湖を行き来する船業者が拠点としており、物資を輸送するために、三条大橋まで車石が置かれていた。」『広重 英泉 木曽街道六拾九次』 宿内家数は3,650軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠71軒で宿内人口は14,892人であった。『ちゃんと歩ける 中山道六十九次 西』
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18:00-18:00
「京師 三条大橋」保永堂版、歌川広重作 「中国絵画風の荘重な運筆で山々を描き、橋の全貌を横から捉えて伸びやかな構図の中に配する。」『歌川広重 東海道五十三次 五種競演』 最初に橋が架けられたのは室町期とされる。江戸期、五街道の東海道五十三次の西の起点となった。そのため幕府直轄の公儀橋に位置付けられた。
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どこかで早咲きの桜に出逢えるかと期待したが、サクラにはやはりまだ早く、ウメ、モモ、マメザクラなどが春の近づきを教えてくれた旧中仙道の宿場めぐりであった。
旧中仙道を塩尻宿から京三条大橋まで
1日目の旅ルート
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