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モロさんの静岡県の旅行記

東海道53次を歩く《第2回》三島宿〜掛川宿

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「東海道53次の踏破」の旅の第2回目である。今回は、三島宿〜掛川宿の15箇所の宿場を歩くことにした。宿泊地は、吉原宿、興津宿、府中宿、藤枝宿である。今回歩いた区間では、宿場間の距離は左程ではないが、原宿、蒲原宿、由比宿、丸子宿、岡部宿、金谷宿、日坂宿のように、宿場町であっても現在は宿を見付け難い場所が結構あって、それらを避けて宿泊地を計画するのに苦労した。第1回目で味を占めた“途中を公共交通機関で飛ばす”という裏技を今回も多用することになった。今回は、薩た峠、小夜の中山といった急登や、富士川・安部川・大井川といった川越えの難所を幾つも通る旅で、箱根以上に旅の苦労を実感できた面白い旅であった。ただ、旧街道歩きの旅人や、各立寄り先での観光客を見掛けることが殆どなく、週末のみ開店する土産物店や茶屋も多くあって、少々寂しく、残念であった。歩行速度や立寄り先での滞在時間に余裕をもって計画していたこともあり、5日共計画行程より1時間程前倒しで旅が進んだことは、次回の参考となる大きな収穫である。秋に入っても未だ気温は高めで日差しも強く、3日目の半日は降雨にも見舞われ、暑さと降雨が身体に堪える旅であった。

神社ツウ モロさん 男性 / 60代

1日目2025年9月29日(月)
08:00-09:00

源兵衛川

三島市

「源兵衛川」を   >

自宅を5:00に出て、小田急線とJR東海道本線普通列車を乗り継いで、8:00前に三島駅に到着した。第1回目の終着点であった駅が懐かしく感じた。三島駅から三島広小路に向かい、第2回目の東海道踏破の旅を再開した。三島駅を出て「三島市立公園楽寿園」の東側から南側の「小浜の道」に入り100m余り歩くと、「楽寿園」から流れ出る小河川“源兵衛川”がある。川縁の小径・河川内の飛び石伝いに250m程下流の“聖徳太子堂”辺りまでが河川公園になっている。早朝なので人影は殆ど見られなかったが、夏場の日中は子供達の水遊び場になっているようである。第1回目の最後に訪れた時の楽寿園の池は干上がり、小川の流量も少なかったが、源兵衛川の流量は非常に多かった。楽寿園の池も満水になっているのかと想像した。樹木で日差しも遮られて、涼しい、快適な遊歩道であった。街の中心地とは到底思えないような閑静な雰囲気が満ちていて、富士の伏流水が流れる地域ならではの河川公園である。

08:00-09:00

東海道松並木

清水町(駿東郡)

「東海道松並木」を   >

第1日目の目的地の吉原宿までは少々距離があるので、広小路駅(バス停)から医療センター入口(バス停)間、徒歩2.3km分の街中は、旧街道を走る東海バスに乗り、飛ばすことにした。三島宿から1km程の境川で「伊豆の國」から「駿河國」に入る。医療センター入口(バス停)から200m程歩いた辺りに“長沢松並木碑”が立っていて、100m程に亘って松並木が残っている。見栄えは控えめだが、創った感がない旧街道の面影を残す松並木であった。

09:00-10:00

智方神社

清水町(駿東郡)

「智方神社」を   >

長沢松並木の直ぐ先の参道を入ると、斬首された護良親王の首を祀る“智方神社”がある。小さな拝殿や土蔵のような造りの本殿はRC造で、歴史的な重みを感じ辛い社殿である。護良親王御陵も真新しい造りであった。本殿の背後や境内には沢山の石碑や祠、石仏、燈明が立っていて、埋葬の目印に植えられたとされる楠の御神木は立派であった。手水舎の手前に大量の水が湧き出る桝があって、アイシングか転落防止用の金網が敷かれていた。

09:00-10:00

潮音寺

智方神社から1km弱歩くと、曽我兄弟に討たれた工藤祐経を追って自害した妻の白拍子を祀る“潮音寺”がある。寺名を刻んだ立派な石碑が参道入口に立っていて、山門はない。境内に入った直ぐ左側に「亀鶴姫の碑」が祀られていた。背面に沢山の石仏が並んでいて、美しく趣のある景観を創っている。境内はロータリーの奥にRC造の本堂が、ロータリーの真中や周囲に石碑や石仏が沢山立っているような造りで、少し異質な趣がある寺であった。

09:00-10:00

平作地蔵尊

車の往来の多い県道から外れた旧街道の、黒瀬橋の袂に“平作地蔵尊”の小さな祠が建っている。「日本三大仇討」の一つで、道路際にその逸話が解説されている。義理の息子の仇討ちのために、自害をしてまでも仇の居所を聞き出した茶屋店主 平作を供養するために祀られた地蔵であるそうだ。町人にも拘らず仇討ちに命を懸けるという、町人の覚悟が滲む、義理人情の象徴のような話である。

10:00-11:00

沼津城本丸跡

沼津市

「沼津城本丸跡」を   >

“平作地蔵”から1km強、20分程で“沼津城本丸跡”に到着した。現在は公園の一角に石碑が立っているだけで、復元された一部の石垣が観られるものの、城跡らしさは殆ど感じられず、少々味気がない場所である。

10:00-11:00

丸子神社 浅間神社

“沼津城本丸跡”から500m程先の県道160号線沿いに4箇所程の「本陣跡」の石碑が立っていて、その付近が宿場の中心地であったようだ。「本陣跡」の石碑が立つ一画の西側に坂上田村麿・源義家に所縁のある“丸子神社 浅間神社”がある。銅板葺の拝殿は質素ながらも重厚な雰囲気がある切妻造りである。左右の社も拝殿に似た雰囲気の銅板葺が美しい造りで、整然として安定感のある社殿である。拝殿の屋根の銅板葺の一部が黒いので、掃き掃除をしていた人に尋ねると、最近の台風ではぎ取られて修復した箇所であるそうだ。青銅色に馴染むには少し時間が掛かりそうである。

10:00-11:00

千本浜

沼津市

「千本浜」を   >

旧東海道からは外れるが、海岸線の景色を確かめようと千原松原に向かった。“浅間神社”から大きな寺の間を抜けて5分程歩くと松林に入る。「沼津公園」「千本浜公園」として整備された、深く密生した松林である。残念ながら、海岸線には高さ5m程の防潮堤が続いていて、松林から海を直接眺めることはできない。堤頂、海岸からは南方向に伊豆半島が、西方向は富士川河口まで続く長大な砂浜、その先の三保松原までが眺望できて、素晴らしい景観であった。北方の松林上に富士山が在る筈であるが、厚い雲に遮られて見えなかったことが残念であった。

11:00-12:00

松蔭寺

沼津市

「松蔭寺」を   >

“千本松原”から先暫くは旧跡が殆どない区間なので、千本浜公園近くの二中入口(バス停)から原宿の東町(バス停)間、徒歩5.1km分は富士急シティーバスに乗り、飛ばすことにした。バス停から旧街道の南側の細道に入ると、付近は多くの寺が建つ寺町のような区画であった。白隠禅師が開いた白隠宗という宗派の大本山である“松陰寺”が建っている。入口の門は国の登録有形文化財に指定される重厚な山門である。大きな本堂も古く、入口に唐破風の庇が付いた巨大な庫裡は見応えがあり、印象的だった。白隠禅師の墓や鐘楼、色々な石塔が立つ明るい境内である。

11:00-12:00

東海道原宿 浅間神社

松陰寺から5分程歩いて、旧街道の北側にある“浅間神社”に寄った。木立の中に比較的小さな社殿が建っている。参道入口には高札場跡や原宿を示す道標が立ち、道祖神が祀られていて、原宿を守る神社であったことが窺えた。旧街道の本陣跡は民家の入口に控えめな表示があるだけであった。

12:00-13:00

六王子神社

原宿から先暫くは旧跡が殆どない区間なので、原駅から東田子の浦駅間、徒歩4.8km分は東海道本線に乗り、飛ばすことにした。東田子の浦の駅前には大きな「東田子の浦駅 開設記念碑」が立っていて、駅の存在の有難味を感じさせている。碑の背面にある“六王子神社”を参拝した。龍を宥めるために生贄になった幼い巫女を悲しんで自殺した同僚の6人の巫女を祀った神社であるそうだ。浅い茂みの中に建つ拝殿は真新しいRC造であるが、ピンクと白の塗装が巫女を祀る神社らしくお洒落である。本殿もRC造であるが、意外と立派な造りであった。生贄になった巫女は別の神社に祀られていることが不思議である。

12:00-13:00

立圓寺

“六王子神社”から300m程歩くと非常に立派な仁王門が建つ“立圓寺”がある。尾張藩の侍医が寺から観る富士山を絶賛したと云われる。今まで雲で隠れていた富士山の頭が、ここに来て見え始めたのも偶然であったのだろうか。唐破風の庇が長く突き出た大きな本堂である。境内の一角には「ゲラティック号遭難誌」と錨が展示されていた。道路沿いの電線が美しい景観の邪魔をしている。

12:00-13:00

田子の浦

富士市

「田子の浦」を   >

万葉集に詠われた“田子の浦”の海岸線を歩いてみることにした。原宿と吉原宿間の距離が少し長いせいで、東田子の浦の旧街道沿いには“間宿柏原本陣跡”表示が立ち、間宿があったことが分かる。“立圓寺”の先で浜辺に向かう小径に入り、松林の中を抜けて防潮堤の上に出た。地域を水害から守るために造られた「昭和放水路」の記念碑が防潮堤背面の法面に立っていたが、肝心の水路は見当たらなかった。防潮堤内面の松林は幅が狭く、防潮堤の上には高さ3m程の防風柵までが立っていて、景観は余り良いとは言えない。波打ち際には消波ブロックが並べられていて、波打ち際に近付くのも容易ではない状態である。“田子の浦”と呼ばれた大きな入江は、現在は田子の浦港になっていて、工業施設が建ち並んでいるのが遠望できた。田子の浦の歌の世界との隔世の感を禁じ得ない。堤頂からは山頂まで完全に姿を現した富士山が観えて綺麗であった。

13:00-14:00

香久山 妙法寺(毘沙門天)

富士市

「香久山 妙法寺(毘沙門天)」を   >

旧街道に戻り、“淡嶋神社”と“愛鷹神社”を参りながら3km程歩くと“妙法寺(富士毘沙門天)”がある。日頃の散歩で度々訪れている深大寺と並ぶ「日本三大だるま市」が開かれる寺である。本堂手前に建つ梁や柱が絵柄の陶板や彫刻で装飾された「龍神香炉堂」が綺麗で、珍しかった。場内の案内図も陶板で造られている。本堂は非常に大きく立派であるが、「龍神香炉堂」のようなケバケバしさはなく、堂内には大きな達磨が鎮座していた。本堂の左手に廻るとネパールの寺院のような尖塔が乗った奇妙な構造物が建っている。「洞窟七福神巡り」の入口である。寺務所で七福神巡りの押印用の台紙を貰って、暗い洞窟内の所々に祀られた神様に参拝し、押印して巡る。神様の脇に掲げられている陶板の絵画も見事である。暗いので押印が逆さになったり、位置ズレしたりと、結構慎重さが試される20分弱の七福神巡りであった。木造の毘沙門天の御本尊とは別に、屋外にも毘沙門天が祀られていて、見所が多いお寺であった。だるま市の季節ではないこともあって、参拝客の姿は殆ど見られなかった。参道入口に鳥居が建っていて、神仏習合を象徴した景観になっている。

14:00-15:00

岳南電車

富士市

「岳南電車」を   >

吉原駅から吉原本町駅間、徒歩2.8km分は岳南電車に乗り、飛ばすことにした。JR吉原駅と岳南電車吉原駅が100m以上も離れているのが不思議で、非常に不便である。乗車券は現金払い、硬券である。大昔の京王井の頭線の車両を改造して、1両又は2両編成で運行されている。車両の前面形状は、前面窓が横に回り込むように拡幅改修される前の初期の形を保っていることも非常に懐かしい。他に京王本線で使用されていた車両や、古い珍しい小型の電気機関車も運行されているようだ。ホームで運転手さんとお話しすると、懐かしさを求めて訪れ、利用する客も沢山いるそうである。昔のままの内装や、発進・走行時の音や振動が懐かしさを増幅してくれた。珍しい車両を使用する地方鉄道を利用するのも、旅の楽しみの一つである。

15:00-16:00

身代わり地蔵(陽徳寺)

吉原本町駅のホームの背面に祀られている。広めの通路のような狭い境内の片隅に赤い前垂れを掛けた8体のお地蔵様が祀られていて、小さな御堂や鐘楼が建った異質な空間になっていた。

15:00-16:00

吉原宿脇本陣四ツ目屋跡

吉原本町駅を降りて西向きに進むと吉原宿のメイン通りで、現在も歩道に屋根が掛けられた華やいだ雰囲気の通りである。5分程歩くと“吉原宿脇本陣四ツ目屋跡”があった。「おもちゃのキムラ」の店先の路面に“吉原宿脇本陣跡”を示す金属板が埋め込まれている。その他の本陣・脇本陣も商店の前の標示のみが名残りになっていて、注意深く歩かないと見逃してしまう。沢山の本陣・脇本陣が並び、賑やかな宿場であったことが想像できる区域であった。

16:00-23:00

くれたけイン富士山

「くれたけイン富士山」を   >

吉原宿の繁華街から1km程離れた、富士市役所等の施設が建ち並ぶ広い通り沿いに建つ宿泊施設である。付近の新通町公園には0型新幹線が屋外展示され、小型の列車が走行するレールも敷かれていて、今では珍しい光景を目にすることもできた。ホテルの部屋はビジネスホテル然として少々窮屈であったが、2階の部屋の窓からも富士山が眺望できて、名に違わぬ素晴らしい景観のホテルである。大浴場は比較的狭いものの、日替わりで男女入れ替え制の露天風呂が付いていて、そこからも富士山を拝むことができて、ビジネスホテルとは思えない素晴らしい大浴場であった。無料で提供される朝食も、朝食として十分なメニューであった。近隣に多数の飲食店やスーパーもあって非常に便利である。

2日目2025年9月30日(火)
08:00-09:00

人柱供養塔・雁堤人柱之碑

富士市

「人柱供養塔・雁堤人柱之碑」を   >

宿泊施設から旧街道方向に5分程歩いた青島町(バス停)から第一小学校(バス停)間、徒歩2.3km分は、旧街道を走る富士急静岡バスに乗り、飛ばすことにした。第一小学校(バス停)から東向きにJR柚木駅を超えて2km弱歩いた旧街道の北側に“護所神社”がある。「雁堤」建設時に人柱となった旅僧を供養した神社で、参道の階段を上った赤い小さな鳥居の先に“雁堤人柱之碑”が立っている。「雁堤」が折れ曲がった頂点に位置している。小さな社と供養碑のみが立つ狭い境内であるが、昔の富士川の状態や堤防建設時の苦難が想像できる場所であった。付近の堤の法面には彼岸花が咲き乱れ、美しさの中に物悲しさが漂う景観であった。

08:00-09:00

水神社

“護所神社”から「雁堤」上を西向きに1km程歩いた堤の終端に“水神社”が建っている。堤頂からは堤外地の公園や畑の緑や、富士川上流部が見渡せて非常に綺麗であった。神社に隣接する店舗の前を抜けると神社の東側参道がある。薄暗い木立の中に朱色に縁取られた土蔵風な拝殿が建っている。裏の本殿は意外に普通の形態の社である。参道入口には「富士川渡船場の碑」「不盡河帰郷堤之碑」等の碑や灯篭、道標等が立っていて、川越えに関わる趣深い神社であった。

09:00-10:00

岩渕の一里塚

“水神社”の参道入口の直ぐ西側が富士川橋の袂である。富士川橋は橋長400mのリベット接合の下路トラス橋で、現代では新設されない構造の歴史を感じる美しい橋である。歩道は上流側に車道と別途に造られていて、景色を楽しみながらのんびりと渡ることができた。“水神社”から1.6km程歩くと、道路脇に“岩淵の一里塚”の大きな道標が立っていた。旧街道(現県道188号線)が直角に曲がった箇所で、見通しが悪く、交通量は少ないものの、通行には注意が必要な場所である。道標の後ろと道の対面に太い幹のエノキが生えている。西側のエノキは、太い幹が根元から5m程上で切られ、沢山の若い枝が伸び始めていた。昔は道を覆うような大木であったことが推察された。住宅街の中にぽつんと異質な景観が現れる場所であった。一里塚の先の富士川駅から蒲原宿がある新蒲原駅間、徒歩4.1km分は東海道本線に乗り、飛ばすことにした。

10:00-11:00

旅籠 和泉屋

新蒲原駅からJR線のガードをくぐり、細い路地を北方に突っ切ると旧街道に出る。旧街道を西方に100m強進むと右側に古い日本家屋が建っていた。“旅籠 和泉屋”である。隣接した建物には「お休み処」の暖簾が架かっている。暗い屋内の“和泉屋”は如何にも無人のような雰囲気であったが、戸を開けて「見せて頂けますか?」と声を掛けると、中から「どうぞ」との声がしたので入ってみた。比較的狭い表の屋内は少し古びて雑然としていて、一般公開している風な気配ではなかったが、奥から現れた女性が暖かく迎え、説明をしてくれた。奥行きが浅い、小振りな旅籠であったようだ。街道の往来が減った東海道線開通後に旅籠は廃業し、その後昭和に入ってから女性の先代が建物を購入して、暫く煙草・牛乳等の販売を営んでいたそうである。近隣に煙草工場があって賑やかだった専売以前の時代や、電気・化学工場の通勤者のために新蒲原駅ができたという経緯等の地域に纏わる話も含めて、家族が写った写真を見ながら、女性の知る蒲原宿の様々な話を聞かせて頂いた。屋内には、江戸時代に旅人が使用した弁当箱や旅籠当時の看板等が展示されている。北側の小川の影響で土間が湿り、下回りの傷みが気掛かりであるそうだ。隣接のお休み処は町の管理であるそうだが、個人で古民家を維持するのは大変である。話好きな女性のお陰で、20分程の楽しい時間となった。

10:00-11:00

旧五十嵐邸

静岡市清水区

「旧五十嵐邸」を   >

“旅籠 和泉屋”から西方に200m程歩くと薄緑色に塗られた洋風家屋が建っていた。”旧五十嵐歯科医院“である。無料で内覧ができた。明治から大正にかけて歯科医院であった建物で、医師の子孫であるらしい女性が案内してくれた。建物は東側の初期の建物に、大正期に西側が増築された非常に広い木造2階建てである。北側には広い中庭の先に2棟の蔵が建っている。名医だったそうで、東京・名古屋等の遠方から訪れる患者も多く、診療待ちの宿泊設備も備わっている。歯科技工士がいなかった当時、自宅で技工するための金歯用の金を収納するコンクリートの土台に固定された大きな金庫が特徴的である。2階の診察室には、古い診療椅子や技工器材が残されていて、時代を感じさせていた。小さな池のある綺麗な中庭の中央に屋根を被った井戸があり、井戸の上には汲み上げ用のポンプが設置されている。ポンプは腐食が進み錆びだらけであるが、清水を大切にしていた医者らしい設備であった。2棟の大きな蔵の中には当時の備品が沢山収められているそうである。風呂は五右衛門風呂であるが、円形ではなく、方形の上部がタイル張りの珍しい造りで、医師のセンスが窺える設備の一つである。中庭側から見ると窓の桟が少し歪んでいて、増設した境がはっきりと分かる。施設は、現在は町に移管されていて、丁寧に維持管理されている。30分強の詳しい説明と会話を楽しむことができた。

11:00-12:00

蒲原夜之雪記念碑

静岡市清水区

「蒲原夜之雪記念碑」を   >

蒲原宿観光後、再び新蒲原駅に向かった。「問屋場跡」から小川沿いの小径を50m程歩くと小橋の袂に廣重の東海道53次の画の「蒲原夜之雪」の石碑が立っていた。小橋や小川沿いの欄干は茶褐色に統一され、木製の塀が背景になった情緒ある雰囲気が創られていた。石碑を覆うように生えた桜が満開の時期は更に美しいことであろう。

12:00-13:00

東海道由比宿交流館

静岡市清水区

「東海道由比宿交流館」を   >

新蒲原駅から蒲原駅間、徒歩2.5km分は東海道本線に乗り、飛ばすことにした。本当は由比駅まで飛ばしたいのだが、由比宿が蒲原駅と由比駅の中間辺りにあるので、蒲原駅から歩かざるを得ない。蒲原駅と由比駅が宿場とかなり離れた位置に造られていることが不思議である。蒲原駅から1.7km、20分程歩くと「由比本陣公園」に着いた。旧街道に沿って瓦屋根が乗った木塀と立派な木戸門が復元された綺麗な公園である。木戸門を入った芝生の公園内には「由比本陣跡」の表示があり、右側には昔の日本家屋を模して造られた大きな“東海道由比宿資料館”が建っている。館内では由比宿のジオラマや付近で描かれた廣重の絵などが展示されていて、由比宿を知る上で良い参考になった。芝生の周囲には物見塔や東屋、由比本陣記念館「御幸亭」、庭園、井戸等も復元されていて、非常に美しく、見所の多い公園であった。

12:00-13:00

東海道広重美術館

静岡市清水区

「東海道広重美術館」を   >

由比本陣公園の奥の山際に建っている。我家にも東海道53次の版画のレプリカの全集があるが、本物を見たくて入ってみた。2階建ての美術館の常設展示は1階のみで、大小の展示室内に歌川広重の東海道53次の画だけでなく、冨士36景や名所江戸百景等の様々な作品が展示されていた。急ぎ足での15分程の見学であった。

14:00-15:00

西倉沢の一里塚跡

由比宿内の町並みには旧街道の雰囲気が色濃く残っている。観光用に整備されているようではないが、旧街道沿いには昔の日本家屋が非常に沢山残っていて、それらの多くは重垂木屋根の構造が特徴的である。屋根を見上げながら歩くと、古い家をリフォームした家、又は新築であるが景観に配慮してお金を掛けて建てられた家であることが良く解る。由比本陣から4km弱、1時間強歩くと“西倉沢の一里塚跡”である。路地のように狭い旧街道の三叉路の片隅に“西倉沢の一里塚跡”の石碑が立っている。

14:00-15:00

薩た峠

静岡市清水区

「薩た峠」を   >

“西倉沢の一里塚跡”から先の旧街道は急登の山道である。道沿いには未だ青いミカンの実が生っていて、石垣山一夜城付近の景色によく似ていた。道路の東側は真下に東海道本線が走る急斜面である。幅4m程の狭い道路であるが、舗装されていて歩き易かった。駿河湾、伊豆半島を眺望しながら上って行く。“西倉沢の一里塚跡”から標高差70m、距離1.2km、30分弱で「薩た山合戦場」の表示が立った平場に到着した。合戦場の解説板と共に“薩た峠”の石碑も立っていて、本来の“薩た峠”であるらしい。駿河湾と伊豆半島の眺望が素晴らしい場所である。

14:00-15:00

薩た峠展望台

“薩た峠”の石碑から100m程進むと四叉路があり、海側が“薩た峠”の駐車場である。10台分程の駐車スペースや公衆トイレが備わっているが、眺望は余り良くない。駐車場の先端の小径を100m強進むと“薩た峠展望台”があった。小径より2m程高い、10名程が利用できる展望台が設置されている。展望台の背面のポール上に、東名高速や東海道本線の状況を実況するカメラが設置されていた。標高は100mもないが、北東側直下には東名高速と東海道本線が走り、運が良ければその上に富士山が眺望できる素晴らしい場所である。残念ながら、我々は運が悪い方だった。とは言え、眺望は正に絶景だった。車でも簡単に訪れることができる場所であるが、当日の観光客は我々のみであった。

14:00-15:00

薩たの本城跡

“薩た峠展望台”の下の小径は“薩たの本城跡”の方向に伸びていて、興津宿まで通じる旧街道の脇道である。本旅の計画時は“薩た峠展望台”の先で通行止めになっていて、“薩たの本城跡”へは旧街道から急登の「牛房坂」を上らなければならなかったが、今回は通行止めが解除されていた。途中の山側に低い石垣があるほぼ平らな小径を200m程歩くと東屋が建つ「牛房坂」の上部に出た。駿河湾が目の前に広がる眺望の良い場所である。余りの近さに拍子抜けしてしまった。東屋から150m程の辺りに“薩たの本場跡”が在る筈であるが、付近には何の表示も見当たらなかった。東屋から小径を300m程進むと「薩た峠の標柱」があり、「薩た峠の歴史」「薩た山の合戦」の解説坂が立っていた。その先は急登で、200m程階段を下ると公衆トイレが備わった「薩た峠の入口」に出た。“西倉沢の一里塚跡”から2.2km、丁度60分の峠越えであった。

16:00-23:00

クア・アンド・ホテル 駿河健康ランド

「クア・アンド・ホテル 駿河健康ランド」を   >

興津川の河口に建つ大きな入浴・宿泊施設である。薩た峠越えの歩きで訪れたが、国道1号線を渡るルートが解り辛く難儀した。今回は夕朝食付きのプランで宿泊した。部屋はビジネスホテル然として、洗面スペースのみが付いた窮屈な造りであった。高層階の海側の部屋の窓からは駿河湾が眺望できて、窮屈さを補う素晴らしい景観であった。大浴場は温水、冷水、露天、サウナ、岩盤浴等、非常に多くの種類があって、梯子して入るだけでもかなりの時間が必要である。サウナと冷泉、泡・超音波・電気風呂が旅の疲れを取るには最高であった。浴場に辿り着くまでが多少面倒である。沢山の客が入浴してはいるが、広いのでそれ程混雑感はなく、気持ち良く利用することができた。夕食は和洋中の8軒程の店舗から選択出来て、家内の選択で1階の懐石料理がセットになった和食料理の店で食べることになった。普段の旅行で食べ尽くしたような懐石料理ではあるが、獲れたての美味しいネタで、見栄えも良く、街道歩きの旅には贅沢過ぎる料理だった。家族連れ等、非常に沢山の日帰り客が訪れていた。近隣の立寄り先で聞いた話では、予約が取り辛い人気の施設であるそうだ。深夜まで営業する店舗もあり、日帰り客も遅くまで滞在できる、1日のんびり過ごすのに相応しい施設であった。

3日目2025年10月1日(水)
07:00-08:00

龍興寺

丁度良い時刻で、運転手のお勧めもあって、宿泊先から興津駅間、徒歩1.1km分は宿泊施設の送迎バスに乗り、飛ばすことにした。空いた時間を利用して駅から200m程の“龍興寺”に寄ってみた。百地蔵の第83番延命地蔵が祀られた寺である。飾り気のない質素な本堂の前には、幹の太い、枝振りが見事な素晴らし松が生えていた。

07:00-08:00

理源寺

静岡市清水区

「理源寺」を   >

“龍興寺”から旧街道を200m程歩くと、目の神様の墓が祀られた“理源寺”がある。参道の途中に“龍興寺”の松とは異なった自然な枝振りの幹の太い松が生えている。非常に落ち着いた雰囲気の、飾り気のない寺である。本堂の賽銭受けの隙間から堂内を覗いてみると、御本尊の可愛らしい小さな木造が見えた。

08:00-09:00

清見寺

静岡市清水区

「清見寺」を   >

“理源寺”から15分程歩くと山側の石段の上に門が建っていて、上方に“清見寺”が見えた。今川氏に囚われていた幼い頃の徳川家康が暫く過ごした寺である。石段の上の門は寺の総門で、寺の境内の間にはJR東海道本線が走っていて、参道が途切れてしまっている。跨線橋で線路を渡って寺に向かうと、山門の前には途切れた参道の名残りが残っていた。非常に大きな寺である。山門、本堂(大方丈)、仏殿、書院、鐘楼等の建物は皆古く、大きく立派な造りである。有料で拝観ができた。本堂までの間で寺の住職の奥様らしい女性が寺の概略を説明してくれた。大昔は総門の石段の下の直ぐ先が海岸線だったそうである。天井に血飛沫の跡が残る大玄関、本堂・書院の縁側から眺める庭園、狭い家康手習いの間、質素な造りの書院、2階から観る現代の海岸線方向の景色等、気の向くままに、ゆっくり拝観できた。2階から海岸線方向を見ると、総門の先に松並木があって、大昔の海岸線であったことが良く解る。海岸方向の工場の煙突が邪魔になってはいるが、条件が良ければ、雪舟の絵のような、富士山と伊豆半島が広がる景色が観えることもあるのだろうか。建物内部だけでなく様々な記念碑、塔や五百羅漢石像が立つ西側の庭園も趣があって綺麗であった。拝観開始時刻が早いので、旧街道を歩く旅人には有難い寺であった。

09:00-10:00

興津坐漁荘

静岡市清水区

「興津坐漁荘」を   >

“清見寺”の斜向かいに“興津坐漁荘”が建っている。元老であった公爵 西園寺公望が建てた別荘で、実物は明治村に移築されている。数年前に明治村を訪れた際に観ていたかもしれない。敷地内にレプリカが復元され、無料で内覧できる。開館時刻前で入れなかったが、隣接する公民館側から塀越しに眺めることができた。

09:00-10:00

延命地蔵堂

“興津坐漁荘”から1km弱歩くと道沿いに“延命地蔵堂”が建っていた。格子戸のガラス越しに中を覗くと、可愛らしい地蔵尊が祀られていた。御堂の前には常夜灯の石灯籠や、隣接して古い建物も建っていて、旧街道の面影が残る一角であった。

09:00-10:00

東光寺

“延命地蔵堂”から少し歩いた旧街道沿いに“東光寺”がある。山門が唐破風造りの屋根に格子状の門戸が付いた綺麗で珍しい造りをしている。500年程前に造られたと云われるが、現役の門は真新しく、再建されたもののように見えた。立派な本堂の前庭は、沢山の大きな庭石や古い瓦が並べられた珍しい造りであった。

10:00-11:00

江浄寺

“東光寺”の近くの横砂西(バス停)から清水駅(バス停)間、徒歩2.4km分は静岡ジャストラインのバスに乗り、飛ばすことにした。清水駅から旧街道に戻り、南方向に500m程歩くと、信長の命により自刃した家康の嫡男の遺髪が納められた宝塔が立つ“江浄寺”がある。山門は閉ざされていたが、脇の駐車場側から入ることができた。宝塔は山門の先、左手に立っていた。芝で覆われた明るい境内に、RC造の白色の壁面の本堂が建つ静かな寺であった。

10:00-11:00

江尻宿寺尾本陣跡

“江浄寺”の参道から先の旧街道はクランクしていて、付近からが江尻宿の中心地であったようだ。現在も清水銀座商店街として化粧ブロックで舗装された洒落た街並みが続いている。北側に連立する3階建ての長いビルは、防災・防火用の目的で建てられた珍しい商業ビルであるようだ。クランクから200m程歩くと、道端に“江尻宿寺尾本陣跡”の石碑が立っていた。黒色御影石でできた綺麗な石碑であった。

10:00-11:00

魚町稲荷神社

清水銀座商店街の道の突き当たりの茂みの中に“魚町稲荷神社”が建っている。少し曲がった参道の先に小振りな社が建つ神社で、脇が児童公園になっている。神社の右側の車道を50m程進むと“江尻城跡”の解説板が立っていた。“江尻城跡”は、現在は小学校の校庭になり、痕跡は残っていないようであった。

11:00-12:00

延寿院

清水銀座商店街の外れで南方に曲がり、巴川を渡って1km強、20分程歩いたところに“延寿院”がある。入口には表示もなくて分かり難い。今にも泣きだしそうだった天気が、いよいよ本降りになってしまった。狭い境内に新旧・大小の御堂が建っている。大きい方の御堂の“延寿院不動堂”は、銅板葺きの屋根の隅棟に角がなく、軒が緩やかに湾曲している珍しい建築様式の方三間堂で、非常に美しい造りであった。御堂好きの人には見逃せない寺であろう。

11:00-12:00

姥ヶ池弁天

“延寿院”から500m程歩いた住宅街の片隅に“姥ヶ池弁天”がある。孫の病の身代わりに入水した老婆を祀る神社である。水溜まりのような小さな池の奥に小さな石像が立っている。お参りは姥ヶ池の背後に建つ弁天様を祀る小さな御堂で行う。雨模様の下で逸話を思い浮かべながらお参りすると、物悲しさも一入であった。

13:00-14:00

草薙神社

静岡市清水区

「草薙神社」を   >

“姥ヶ池弁天”から「上原堤」を通って3km弱歩くと草薙である。行程が早く進み過ぎたので、予定に追加して、旧街道から少し離れた“草薙神社”を参拝することにした。草薙一丁目(バス停)から草薙神社前(バス停)の間、徒歩1.1km分は静岡ジャストラインのバスを利用した。毎時1本の運行なので、“草薙神社”参拝も1時間弱の時間が取れて、雨上がりを待つにも丁度良い間合いとなった。狭隘、急カーブの上り坂を5分程走ると草薙神社に到着した。バス停の先に鳥居が建っていて、神社は密生した杜の中に隠れている。脇に立つ日本武尊像を拝みながら石段を少し上ると、少し明るい平場に社殿が建っていた。石段上部に生えた御神木の大楠の枝振りが不気味である。玉垣に囲まれた境内に建つ社殿は、随神門から本殿までの中心線が揃っていて、境内摂社が本殿を中心として南北対照に並んでいる整った綺麗な配置である。拝殿左手前に建つ舞殿もアクセントになった綺麗な配置である。各社殿は皆質素な造りで、境内は非常に厳かな雰囲気に包まれていた。予想よりこじんまりとした神社であった。杜の奥は運動公園になっているようで、神社境内にも弓道場が併設されていた。

14:00-15:00

靜岡縣護國神社

“草薙神社”参拝後、バスで草薙駅まで戻り、静鉄草薙駅から柚木駅間、徒歩4.4km分は静岡鉄道に乗り、飛ばすことにした。柚木駅から300m程戻ると“静岡縣護國神社”の表参道入口である。明治時代に創建された神社で、旧街道には関連性がない神社である。一の鳥居をくぐり木立に囲まれた参道を進んで堀を渡ると明るく開けた場所に出た。大きな舟形の石の手水舎でお清めをして二の鳥居をくぐると、芝で覆われた非常広い拝殿前広場である。明治神宮のように社殿の周囲に板垣がないので、全体の広さが上手く把握できない。広場が広過ぎて、背後に丘の緑があるため、拝殿はそれ程大きく見えなかったが、近付くにつれてその大きさを実感して来る。横長の非常に大きな拝殿である。広場右手の神楽殿からかなり離れていて、長い廊下で結ばれている。参拝の途中で日差しが戻り、緑に包まれた社殿がより美しく見えた。境内の杜は深く、復路に通った大きな神池の水面に映る緑が綺麗であった。

15:00-16:00

府中宿上伝馬本陣・脇本陣跡

“静岡縣護國神社”から静岡鉄道に沿って暫く歩くと旧街道に戻り、国道1号線と静岡鉄道に挟まれた五叉路の一角に「府中宿東見附跡」の表示が立っていた。「府中宿東見附跡」から旧街道を1.2km程進むと、歩道上に“府中宿上伝馬本陣・脇本陣跡”の石碑と解説版が立っていた。本陣・脇本陣跡の石碑の隣には、「駿府貫目会所跡」「駿府問屋場跡」の石碑も立っていて、付近が宿場の中心地であったことが良く分かる。駿府城にも近く、現在も静岡駅と静鉄新静岡駅に挟まれたビジネス街の真中の賑やかな場所である。

16:00-23:00

ホテルシティオ静岡

「ホテルシティオ静岡」を   >

静鉄新静岡駅の複合ビルの目の前にある。周囲は商業ビルが立ち並ぶ繁華街で、飲食やショッピングにも便利な、アクセスが良い場所である。部屋はビジネスホテル然とはしているが、テーブル・ソファーのスペースもあって、非常に居心地が良い。浴室には普通の住宅のような広い浴槽に洗い場も付いていて、ビジネスホテルでは珍しくゆったりとした造りであった。大浴場がない分を十分に補っている。車・人の往来が非常に多いにも拘らず、室内では外の喧騒は全く気にならず快適であった。備品等に不足はなく、きちんと管理されていて、廉価で利用できる良好な宿泊施設であった。

4日目2025年10月2日(木)
07:00-08:00

稲荷神社(二丁町遊郭跡)

宿泊施設から欅並木になっている青葉通りに出て、常盤公園を抜けて旧街道に向かった。青葉通りの欅はまだ小振りであるが、将来は仙台の定禅寺通りのような街を象徴するような綺麗な通りになるだろう。旧街道に向かう途中にあった“稲荷神社”に寄ってみた。付近は“二丁町遊郭”があった区画であるらしい。2本の細身の赤い鳥居の先に祠が祀られた小さな神社である。現在放送中の大河ドラマに出てきた浅草吉原の神社のような雰囲気の小ぢんまりとした神社であった。

08:00-09:00

安倍川義夫の碑

静岡市葵区

「安倍川義夫の碑」を   >

“二丁町遊郭跡”から旧街道に出て少し歩いた、旧街道と県道208号線の合流部の緑地内に「由井正雪公之墓趾」の大きな石碑が立っている。当時、付近には川会所や旅籠があって、宿泊中の由比小雪が包囲された末に自刃した事件現場である。現在は、公衆トイレも設置された小さな公園に整備されていて、小休憩にも適した場所になっている。その先を100m程進むとの道路左手に木造平屋の小さな店が建っている。安倍川餅で有名な「石部屋」である。店先の歩道の覆いが少々無粋であるが、昔の茶屋のような佇まいが旅情をそそる雰囲気である。営業時間前で利用できなかったのが残念であった。隣接した木立の下には、誠実な川越人足の逸話を語り継ぐ“安倍川義夫の碑”が立っている。幹線道路沿いにできた小さく異質な空間である。

08:00-09:00

とろろ汁の丁子屋

「石部屋」の直ぐ先が安部川である。橋長500mの安部川橋は、富士川橋と同じくリベット接合の下路トラス橋であるが、上部の主梁がアーチ状になっていて、開放感がある綺麗な橋である。安部川を渡った先の手越(バス停)から丸子営業所(バス停)間、徒歩2.3km分は静岡ジャストラインのバスに乗り、飛ばすことにした。バスを降りて旧街道を20分程歩くと道路脇に「丸子宿横田本陣跡」の石柱が立っている。付近の旧街道は比較的狭く、昔の雰囲気を残してはいるが、丸子宿の中心地であったような面影は残っていない。北側に国道1号線が走っているにも拘らず通行車両が多く、歩行者には注意が必要である。丸子宿の西端に“とろろ汁の丁子屋”がある。400年以上前に創業したという「とろろ汁」の名物老舗で、茅葺屋根の昔の面影のままのお店の前には「鞠子宿」表示が立っていた。芭蕉の句で使われているように、昔は「鞠子宿」と表記したようだ。営業時間前で利用できなかったのが残念であった。

09:00-10:00

宇津ノ谷集落

静岡市駿河区

「宇津ノ谷集落」を   >

“とろろ汁の丁子屋”の北側の国道1号線にある丸子橋入口(バス停)から宇津の谷入口(バス停)間、徒歩3.6km分は静岡ジャストラインのバスに乗り、飛ばすことにした。バスを降りて丸子川沿いの道を0.5km程歩くと“宇津ノ谷集落”である。集落までの道路沿いに建つ民家の多くが古い日本家屋の外観を残していて、“宇津ノ谷集落”観光への期待感を盛り上げてくれている。看板が立った集落の入口から先の幅5m程の街道の路面は化粧ブロックを敷き詰めた構造で、今風ではあるものの、落ち着いた雰囲気を上手に創っている。殆どの家の外壁が板張りで統一されていて、昔の家並みが奇麗に再現されていた。観光地としての価値を高める取り組みが随所に感じられる場所である。平日のせいか、我々以外の観光客の姿は見られず、茶屋や土産物店も閉まっていて、時代劇のセットの中を歩いているような気分を味わうことができた。

09:00-10:00

明治宇津ノ谷隧道

集落の南端の階段を上り、坂を上って行くと、坂の途中で集落を見下ろせる場所がある。上方から眺める集落は、街道両側に瓦屋根が並んだだけの、余り面白くない景観である。その先に少し広めの公園があって、「宇津ノ谷峠 明治トンネル駐車場」として利用されている。隅には石塔が祀られ、中央に宇津ノ谷峠付近のジオラマが展示されている。宇津ノ谷周囲の険しい地形が解る良くできたジオラマである。公園の先にトンネルの入口がある。1800年代末期に建設された延長200m強の“明治宇津ノ谷隧道”で、坑口の壁面やトンネル内面がレンガのブロックで覆われた非常に古い構造である。トンネルができる前は、トンネル直上の山越えのルートが旧街道で、現在はハイキングルートに利用されている。

10:00-11:00

蔦の細道

藤枝市

「蔦の細道」を   >

“明治宇津ノ谷隧道”を出て100m程進むと三叉路があり、左折して少し上ると峠越えの旧街道に合流した。流水で酷く浸食され、荒れた路面の急登である。暫く下ると“蔦の細道”に出た。“宇津ノ谷集落”から“蔦の細道”まで1km、標高差100m、30分弱の峠(トンネル)越えであった。“蔦の細道”は古代から「宇津の山越え」に利用された古道であるが、余りの急登のため、旧東海道が整備されて以降は利用されなくなった山道である。現在は、木和田川の渓流に沿って緩やかに上る“蔦の細道”の周囲は綺麗に植栽されて、歩き易く整備されている。渓流は、降雨時に濁流になっていたらしく、幾つもの砂防堤が整備されて、「木和田川砂防体験ゾーン」の解説板が掲示されていた。途中の「1号堰堤」下流に架かる吊橋を渡り、左岸の小径を歩いてみた。上流の「2号堰堤」まで続く散策路である。散策路を出て“蔦の細道”に戻ると休み処が建っていて、そこで引き返した。旧街道との交差部から250m程の散策であった。

10:00-11:00

坂下地蔵堂

旧東海道と“蔦の細道”の交差部から数10mの下流に建っている。頑固な牛の逸話に纏わる地蔵尊で、狭い境内に比較的立派な御堂や鐘楼が建っている。鐘楼の後ろにも沢山の地蔵が祀られていて、峠越えの苦労が偲ばれる御堂であった。

10:00-11:00

岡部宿本陣跡

“坂下地蔵堂“背後の国道の坂下(バス停)から岡部宿柏屋前(バス停)間、徒歩2.3km分は静岡ジャストラインのバスに乗り、飛ばすことにした。岡部宿柏屋前(バス停)から100m程戻ると、“岡部宿本陣”の表札が掛かった木戸門が建っている。付近の沿道片側100m程に亘り古い街並みが再現されていて、岡部宿の代表的な観光施設になっている。木戸門の中は広大な芝生の広場であった。広場の先端の山際に小さな稲荷大明神が祀られていたので参拝した。かつては大きな本陣が建っていたことが推察できる。現在は、イベント広場として利用されているらしい。

11:00-12:00

大旅籠柏屋歴史資料館

藤枝市

「大旅籠柏屋歴史資料館」を   >

“岡部宿本陣”に隣接して“大旅籠柏屋”が建っている。非常に間口の広い旅籠である。旅籠建物内は有料で内覧できる。入口の暖簾をくぐると、桶で足を洗う旅人の人形が座っていて、旅籠らしい雰囲気を醸し出していた。説明員が同行して、詳しいお話を聞くことができた。正面通路を挟んで武士と平民の区画が分けられていて、材質、縁の有無等の畳の造りまでが異なっていた、平民側にあるにも拘わらず格式高い主人の部屋には縁付きの畳が敷いてある、店先の板戸・障子戸は季節や天候、セキュリティーに対応した工夫された構造である、昔は1階のみで2階は展示室用に改造したものである、耐震補強のために隠して筋交い等が設置されている等、様々な問答も含めて1時間以上の楽しい時間を過ごすことができた。非常に大きな建物ではあるが、柱や梁は余り太いように見えない。瓦葺の屋根も昔は板葺きであったそうで、内面に板葺きらしい内張りが残っていた。軽い板葺きから重い瓦葺に変えて、構造的に問題はないのかが気になった。2階の展示も非常に興味深いものが多く、大きな鯉が泳ぐ池のある庭園も見事である。旅籠建物の後ろの広い敷地内にはなまこ壁の蔵等も復元されて、資料館・ギャラリー・飲食店・売店等に使われている。資料館での広重の画と現在の現地の様子との対比が中々面白かった。訪れるなら有料区画を是非観ておきたい施設である。

13:00-14:00

蓮生寺

藤枝市

「蓮生寺」を   >

“岡部宿本陣跡”から1km強歩いた藤枝市岡部支所前(バス停)から蓮華寺池公園入口(バス停)間、徒歩5.3km分は静岡ジャストラインのバスに乗り、飛ばすことにした。バス停北側に蓮華寺池との謂れを持つ“蓮生寺”がある。両側が綺麗に植栽された狭い参道を進むと立派な山門が建っている。大きな本堂が建つ広い境内も綺麗に植栽されているが、寺が誇る樹木はイブキである。本堂右手を入ると天然記念物の「蓮生寺のイブキ」が生えていた。我家の墓の入口両側にも生えている植物であるが、巨大なイブキを見るのは初めてであった。境内には他にも沢山のイブキが生えている。古枝の剪定は手間が掛かりそうだ。“蓮華寺”を出た後、北側の蓮華寺池を訪れた。緑色の水面の先に沢山の睡蓮が生えているのが見えた。比較的大きな池と西側の丘一帯が蓮華寺公園として整備されていて、中々美しく、長閑な場所である。

13:00-14:00

若一王子神社

蓮華寺池から西方に500m程歩くと“若一王子神社”がある。藤枝の地名に由来があると云われる神社である。明るい境内の奥の丘の縁に小振りで質素な拝殿が建っている。本殿は拝殿の裏の少し離れた木立の中に建っているが、拝殿との間は板垣で囲われておらず、本殿の前で直接お参りができてしまう。境内社として、隣接して秋葉神社が建っている。藤枝の地名の由来と云われる松の枝に絡んだ藤は見当たらなかった。

14:00-15:00

大慶寺

藤枝市

「大慶寺」を   >

“若一王子神社”から旧街道に出て5分程歩くと“大慶寺”の参道である。境内に入った本堂の前に日蓮上人が植えた樹齢700年と云われる巨大な松が立っている。入母屋造りの本堂が綺麗で、鐘楼の形態にも風情が感じられた。松の前に立つ灯籠に熱心にお参りする老人の姿が印象的であった。寺の付近が本陣・脇本陣が建ち並んだ藤枝宿の中心地であったようだ。歩道に屋根が架かり、沢山の商店が立ち並ぶ街路では、週末に行われる予定の大祭に向けた準備が進められていた。

15:00-23:00

ホテルルートイン藤枝駅北

「ホテルルートイン藤枝駅北」を   >

藤枝宿の中心から瀬戸川を渡って30分程歩いた、JR藤枝駅にも近いホテルである。藤枝駅北口正面の通り沿いであるが、高いビル・マンションが殆ど建っておらず、少々閑散とした街並みである。毎年1回は利用するルートイングループのホテルなので、勝手が分かっていて安心であった。部屋や室内のバス・トイレはビジネスホテル然の造りであるが、使い勝手は悪くない。備品に過不足もなく、ランドリーも利用できて非常に助かった。大浴場は狭めであったが、他の客と居合わさなければ天国である。朝食の食材が少ないが、付いているだけで有難い。付近に飲食店やコンビニが殆どないので少々不便である。

5日目2025年10月3日(金)
08:00-09:00

蓬莱橋

島田市

「蓬莱橋」を   >

藤枝駅から島田駅間、徒歩9.5km分は、当日の行程を考慮して、東海道本線に乗り、飛ばすことにした。旧東海道ではないが、近くに来たついでに“蓬莱橋”を観光することにした。島田駅北口からタクシーに乗って5分程で“蓬莱橋”の袂に着いた。橋の手前には綺麗な案内所や休憩所、お店が建ち、駐車場も整備されている。明治時代初期に対岸の開発のために架けられた橋長900m程の木橋で、時代劇等にも度々出演している。袂で1人100円を収めて橋上を観光した。橋の欄干や踏板は区間的に新しい部材に交換されているが、古い区間は隙間が空いたり、腐食が激しかったりして、局所的に合板で塞がれている個所も見られた。ギシギシという音が不気味であり、また情緒を掻き立ててくれる。丁度、管理者の女性が橋の点検を行っていた。間もなく補修・交換の時期が来て、その間は通行止めになるとのことであった。中間辺りまで行って引き返した。西側の対岸には丘陵の緑が広がり、昔の長閑な雰囲気が感じられ、北東方向の遠方には富士山を望むこともできた。無風状態の絶好の条件下で気持ち良い観光ができた。

08:00-09:00

おび通りのからくり時計

JR島田駅の北側周辺が島田宿の中心地であったようで、旧街道沿いには本陣跡や陣屋跡等の石碑や表示が沢山立っている。現在でも、歩道にアーケードが掛かり、沿道に商店が建ち並んでいるが、昔の賑わいは薄れているようであった。「島田宿中本陣跡」の石碑の手前に、旧街道と交差して、中央が植栽で飾られた石畳の「おび通り」がある。歩行者専用の通りで、300m余りの通り沿いに洒落た店が建ち並んで、島田宿の観光の中心地となっているようである。旧街道との交差部には「からくり時計」が設置されていて、9時の時報に合わせて「帯まつり」に登場する「大奴」の人形が舞う姿を見ることができた。

09:00-10:00

大井神社

島田市

「大井神社」を   >

「おび通り」から400m余り歩くと“大井神社”がある。大井川の水神を祀る島田宿の鎮守の神社である。焦げ茶色に光る鳥居をくぐり、高い木立に挟まれた表参道を進んで石橋を渡ると社殿が建ち並ぶ境内に出た。石橋の袂の大井恵比寿神社に参拝し、赤い太鼓橋が架かる御神池や大奴踊りの銅像を見ながら社務所手前を左折すると拝殿・本殿である。拝殿左手の廊下を進んで大井天満宮、静霊神社等を参拝しながら巡る。拝殿・本殿と共に多数の境内社が建ち並び、全ての社が重厚で厳かな雰囲気に包まれていると共に華やかさも漂う、コンパクトの纏められた中身の濃い神社であった。大井川の人足に慕われた神社であったことが良く分かる。

09:00-10:00

大井川川越遺跡

島田市

「大井川川越遺跡」を   >

“大井神社”から1km程歩くと旧街道は県道と別れていて、分岐には「大井川川越遺跡」の道路標示が立っている。分岐から400m程進むと道幅が狭くなって沿道には平屋の家屋が並び、 その先に「島田市博物館分館」が建っていた。分館から150m程の区間の沿道には、○番宿・○○屋・川会所・札場等の古い建物が沢山復元され、時代劇のような景観が創られている。内覧できる建物に入ってみると、刺青を纏った屈強そうな人足の人形が出迎えてくれた。小さな外観の建物でも、屋内は結構広く、大人数が利用できる施設であったことが窺えた。胸から背中まで彫られた刺青を見て家内が驚いていた。川越え料金が、肩車・各種連台等による方法や水深によって異なっていたこと等が、絵や写真を用いて分かり易く解説されていた。人足や川越えの順番待ちで賑わっていた旧街道の様子が良く伝わってくる遺跡である。「せぎ(堰)」や古い土手「島田大堤」の遺跡も見逃せない。

10:00-11:00

島田市博物館

島田市

「島田市博物館」を   >

古い街並みが再現された通りの西側に“島田市博物館”が建っている。広い敷地に建つ近代的な施設である。通り過ぎてきた「島田市博物館分館」と対になっていて、共通入館券である。2階までフロアがあるものの、常設展示は1階のみで、観る範囲が比較的狭い。女性の髪形や髪飾り、旅人の装束、川越えに関する資料が主な展示内容である。広い割には展示内容が狭いように感じるが、「島田市博物館分館」に入館していればより深く、異なった知識が得られたのかもしれないと、少々後悔した。

10:00-11:00

金谷宿 川越し場跡

“島田市博物館”の裏側の「島田大堤」を進むと大井川橋の袂に出る。手前に立つ「永仰景迹」の背面が少々変な形に見える。大井川橋は、富士川橋・安部川橋と同じくリベット接合の下路トラス橋であるが、橋長は1kmあり、対岸が遥か彼方に見える程長い橋で、渡っていても中々対岸が近付いてこない。広い川幅であるが、上流にダムが造られた現在の流路は5本程で、流量も多いとは言えない、川越え人足が活躍していた時代が想像できない穏やかな流れであった。15分程を掛けて大井川を渡り切って、土手を左折して少し歩くと旧街道に戻る。土手を下りて100m程進むと“金谷宿 川越し場跡”があった。川縁が桜並木になった小川の橋の袂に解説板が掲示されている。看板の後ろには義人「仲田源蔵翁」の石像が祀られ、東屋や公衆トイレも備わっていて、大井川を渡った後の小休憩に丁度良い場所であった。

11:00-12:00

金谷宿佐塚屋本陣跡

“金谷宿 川越し場跡”から300m程歩くと大井川鐡道の新金谷駅北側の踏切を渡る。本年初夏に訪れた懐かしい場所であった。更に1km程歩くと金谷宿の中心地である。道端に幾つかの本陣跡の表示が立っている。JAの建物の前の植栽の中に“金谷宿柏屋本陣跡”の石碑が立っていた。バス停として拡幅された場所でもあり、綺麗に整備された本陣跡であった。金谷駅と新金谷駅の中間程の位置にあって、車の通行量が多く、通り沿いには比較的多くの店舗が見られた。

11:00-12:00

金谷坂石畳

金谷駅手前のガードをくぐると風景が一変する。“金谷大橋跡”の解説板や祠が建った少々急な狭い上り坂が、如何にも旧街道の雰囲気である。国道473号線を横断すると「旧東海道石畳入口」の大きな看板が立っている。国道から少し上ると駐車場とCafeがあり、その前が歩行者専用の“金谷坂石畳”の始点になっていて、幅4m程の石畳が綺麗に復元されていた。“金谷坂石畳”の延長は450m程である。周囲が深い木立に囲まれて薄暗く、箱根旧街道にも似て非常に情緒はあるものの、丸い川石が敷き並べられた急登はこの上なく歩き難く、標高差80m程が非常に身体に堪える石畳であった。

11:00-12:00

すべらず地蔵尊

“金谷坂石畳”の中間付近に“すべらず地蔵尊”が建っている。地蔵尊を示す赤い旗が林立していて、非常に目立っている。旗で目立っているだけではなく、地蔵尊は六角形をした御堂に収められていて、小振りながらも実に美しい造形の御堂であった。沢の水を利用した蛇口をひねって頂くお清めの水には沢山のゴミが混ざっていたが、汗を拭うには丁度良い。休憩用の椅子が配置されていれば、より有難味が増したであろう。

12:00-13:00

諏訪原城跡

島田市

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金谷坂を上り切った先は、丘陵上のほぼ平坦な長閑な道である。金谷坂上端から400m程歩くと“諏訪原城跡”の道路標示が立っていた。道路脇に駐車場とトイレを備えたビジターセンターが建っている。ビジターセンター屋外のベンチで休憩した後、一寸覗く程度のつもりで扉を開けて入ると、事務所から説明員が出て来て捕まってしまった。訪れる観光客が少ないのであろうか、パンフレットを手渡し、有無を言わせず説明を始めた。武田勝頼と徳川家康との合戦に纏わる城跡で、幾層の曲輪、空堀と砦で形成された山城であったようだ。時間の都合上、今回の旅では行程に入っていなかった。ビジターセンター内部には当時の城のジオラマや、復元された曲輪・空堀や城門の写真と共に、城の歴史、合戦の様子が解説されていた。説明員が納得いく程度まで説明を聞いてセンターを出た後、センター近くの曲輪まで行ってみた。浅い空堀の先が平場になっていて、現在は茶畑に利用されている。入口には石碑が並んで、彼岸花が綺麗に咲いていた。

12:00-13:00

小夜の中山 菊川坂

“諏訪原城跡”ビジターセンターの先の県道を渡ると“菊川坂”の上端である。“金谷坂石畳”よりも少し狭い幅3m程の石畳が綺麗に復元されている。周囲に木立が少なく、日差しに晒される急登である。非常に情緒はあるものの、“金谷坂石畳”と同様に丸い川石が敷き並べられた急登なのでこの上なく歩き難く、下りであっても、延長600m、標高差100m弱が非常に身体に堪える石畳であった。“すべらず地蔵尊”参拝のお陰か、転倒しなかったことが幸いである。

12:00-13:00

東海道 間宿菊川

“菊川坂”を下り終えると“間宿菊川”に入る。日頃愛飲している日本茶の産地であるので新茶の購入を期待していた。“菊川坂”の下端で出会った女性に間宿内で茶が購入できる場所がないか尋ねると、良い返事が返ってこなかった。間宿内、特に平日は無理なようである。400m程の延長の間宿には旧街道の面影は残っておらず、1軒の店も見られなかった。日頃の買物が心配になるような、周囲を丘で囲まれた静かな集落であった。

13:00-14:00

小夜の中山 青木坂

“間宿菊川”の集落の西端の「四郡の辻」から再び西方の丘に向かって坂を上って行く。舗装された歩き易い道路であるが、“小夜の中山”最大の急登と云われる“青木坂”が延々と続く道程である。「小夜の中山の茶畑」としても有名な場所で、道の周囲の斜面に茶畑が広がり、時々振り返りながら見下ろす茶畑が美しく、その眺める時間が良い一服になった。「四郡の辻」から1.2km、標高差150m、30分程で坂の頂上に着いた。“小夜の中山”と呼ばれる金谷宿から日坂宿に至る区間は東海道の三大難所の一つと云われるだけあって、途中のなだらかな丘陵上部や間宿の区間を除いて、金谷坂・菊川坂・青木坂・日乃坂の4つの急登を上り下りする非常に大変な道程である。

13:00-14:00

久延寺

掛川市

「久延寺」を   >

延々と続いた“青木坂”を上り切ると木立が増えて小さな集落があり、その中に寺が建っている。山内一豊が徳川家康の接待に使用したという逸話が残る“久延寺“である。明るく開放的な境内の山門や本堂は古く、本堂は花頭窓が付いた風格のある外観をしている。本堂の前に明褐色の石が祀られ、「小夜の中山夜泣き石」伝説が分かり易く解説されている。山門脇の御神木の楠の古木も見事である。寺の前には茶屋の跡が残っていて、寺の逸話に合わせて”接待茶屋“という名で呼ばれていたらしい。急登を上り切った休憩地として丁度良い、見晴らしも良い場所である。現在も寺の先に茶屋や休憩所が設けられているが、茶屋は週末のみの営業らしく開いておらず、残念であった。

14:00-15:00

農事法人 中山茶業組合

“久延寺“から100m程の道沿いに収穫作業をしている農家があった。間宿菊川で新茶が購入できなかったこともあって、付近で購入できる場所がないか尋ねてみると、その農家が利用している製造工場に連絡し、農家から100m程先に建つ”中山茶業組合“の大きな工場に案内してくれた。最初に事務所で頂いた風味の濃い冷茶が非常に美味しかった。深蒸し煎茶で特に高い評価があり、各種の賞を獲得する日本でトップレベルの農事組合法人であった。手摘みを含めた数種類の製品を購入することができた。人影がほぼ皆無の中での偶々の声掛けが期待以上の結果に化ける、ドラマのような体験であった。

15:00-16:00

日坂宿

掛川市

「日坂宿」を   >

”中山茶業組合“の先は丘陵上のほぼ平坦な道が続く。”中山茶業組合“の工場の脇の交差点の隅に立った“佐夜鹿の一里塚跡”の石碑のように、昔は「佐夜鹿」と表記された地域であったようだ。両脇には茶畑が広がり綺麗で長閑である。道端の所々に芭蕉等の歌人の歌碑や広重の絵碑が立っていて、それらを観ながらのんびり歩くのが楽しい。3km程先の九十九折れの急登 「日乃坂」を下ると国道1号線に出て、その先の大きな集落が“日坂宿”である。集落内の家々に「○○屋」の屋号が掲げられていて面白い。集落の中心付近にある広い公園の入口に「日坂宿片岡本陣扇屋跡」の木戸門が復元されていた。街道沿いには旅籠や脇本陣の古い建物も残っていた。宿場南端の「川坂屋」は非常に立派な旧旅籠で、週末には内覧できるようであった。逆川の袂に「下木戸跡」の表示があり、「高札場」が復元されていて、風情ある景観が広がっていた。集落全体で宿場の雰囲気や面影を維持する努力をしていることが窺える旧宿場町であった。

15:00-16:00

事任八幡宮

掛川市

「事任八幡宮」を   >

“日坂宿”の下木戸から400m程歩くと“事任神社”の前に出た。「小夜の中山」の西端であり、「願い事がその任(まま)叶う」として崇められる神社である。県道415号線を上越しする歩道橋を渡ると、本宮遥拝所の下に出た。本殿の参拝前であるが本宮遥拝所で最初に参拝することになった。本宮遥拝所から少し上ると御神木が祀られて、その先は御神域であった。本宮遥拝所から下って金毘羅神社、五社神社の境内社を拝みながら進むと“事任神社”の拝殿があった。本来の参道より5m程高い石積みの上に建つ大きな社殿である。拝殿・本殿は重厚な造りで、拝殿右手に立つ御神木の大杉は樹高40m近い非常に太い大木であった。杉の御神木手前に展示された巨大な横笛等の奉納品も見事である。石段下に立つ大楠の御神木は、境内を覆う程の大きな枝振りであった。変な参拝の順序となってしまったが、神聖な雰囲気を漏れなく味わうことができた。事任八幡宮の参道入口にある ことのまま八幡宮(バス停)から掛川駅北口間、徒歩6.6km分は、掛川バスに乗り、飛ばすことにして、今回の旅の帰路に就いた。

東海道53次を歩く《第2回》三島宿〜掛川宿

1日目の旅ルート

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