宿番号:308304
霊泉 杖立温泉の由来 No2
更新 : 2010/3/1 8:31
前頁より
中をのぞくと、龍の口内そのままで、紫色の湯がタップリたまって、白馬の走るやうな早瀬へチョロチョロと流れて居ます。よく気を付けて見ると、咽喉元あたりから、紫がかった白い湯が静かに湧き出ています。さては老翁の教へられたのは此の湯であったたと、朝臣は嬉しくて嬉しくてたまりません。こおどりして天を拝し神に謝し、急ぎ汲み取り帰って之を御産湯に奉りました。
かくて皇后様は御平産、玉のような皇子は(御諱を本田の皇子と申し後に応神天皇と申し奉る)御産れ遊ばしました。今の生の宮・産八幡宮などと申奉るお宮はその時の御跡であります。
又彼の朝臣が探しに行った霊泉は、すぐ御役に立って、皇子の御壽の千年までと貴い御初産湯に使われました。これから龍頭巌窟の温泉の流れを千年川とは呼ぶようになりましたが、これそ当温泉が発見された初めであります。さて龍頭巌窟の温泉とは、只今の蛇の口のことで山の頂から青龍の差下せるといふ見上げた岨ちたる高山は湯能見嶽と申し、肥後と豊後の境にあって、今も龍ノ尾先といふ嵩ちに立つ霊巖が山の頂に御座います。右の様な尊いいはれから当地方では昔から此神泉と由来をいひ傅え聞き傅えして今日でも憚り恐れて三七日の間はけして初産湯に使わず、また死穢を灑ぐに用ひませぬ。
それはさておき、その後も度々皇子ご誕生の際には此の湯を御初産湯に用ひさせられましたと見ゐまして、人皇第四十九代光仁天皇の御代、賓龜二年辛亥の歳、筑前の国宗像郡産ノ宮の棟木の上書きに、「肥後の国の山中に龍頭巌窟の温泉を御初産湯に用ひ給ふ」と記してあったことなど、明らかに史傅に載せてありますが、如何に尊い御用に立てゐた霊泉であるかと云ふことが、これでお判りになろうと思ひます。