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宵待ちの宿 萩一輪のお知らせ・ブログ
萩の歴史人物学「吉田 松陰」
更新 : 2009/1/25 22:31
【新しい時代を切り拓いた人材を育成】
松陰は天保元年(1830)、藩士杉百合之助の次男として、萩城下東郊の松本村団子岩(椎原)に生まれました。通称を寅次郎といい、のちに松陰、二十一回猛士などと号しています。幼少から叔父・玉木文之進の指導を受け、6歳の時に山鹿流兵学師範の吉田家を継ぎ、藩校明倫館で教授に当たりました。
16歳の頃から、山田宇右衛門や山田亦介ら藩内の知識人から影響を受け、海外情勢にも目を向けるようになりました。そして21歳の時に、藩から諸国修業を許され、九州遊歴を皮切りに、関西、関東、東北各地へも足を伸ばして、ほぼ全国各地を踏破しました。この間に、平戸藩家老葉山佐内からはアヘン戦争に関する情報を得、江戸在住の洋学者・佐久間象山や水戸藩の儒者・会沢正志斎ら各地の知識人に教えを受けるかたわら、海岸防備の状況を視察し、次第に幕藩体制の矛盾についても悟り始めました。
嘉永6年(1853)、24歳の松陰は、浦賀に来航したペリーの黒船を目の当たりにし、翌年、海外渡航を企て、伊豆下田沖に碇泊中の黒船に乗り込もうとして失敗、萩の野山獄に投じられました。
安政2年(1855)、実家杉家に幽閉される身となり、翌年春頃から近隣の子弟に講義を始め、松下村塾の基礎を築きました。安政4年(1857)11月には、杉家宅地内の小舎を修理して塾舎とし、まもなく十畳の部屋を増築しています。村塾では、自由闊達な雰囲気のなか、現実の様々な問題について、危機意識を持って討論がなされました。松陰の指導は、実質わずか2年10か月という短期間であったにもかかわらず、久坂玄瑞・高杉晋作・前原一誠・伊藤博文ら、個性豊かな人材を育てました。彼らは松陰没後、師の精神を受け継いで封建制という古い殻を破り、新しい時代を切り拓いていったのです。
松陰はその後、老中間部詮勝の暗殺計画が藩政府に洩れたことから、再び野山獄に投じられ、安政6年(1859)、江戸伝馬町の獄に送られました。そしてまもなく処刑され、回向院に葬られました。享年30歳。なお、遺骨は、のちに高杉・伊藤らによって、世田谷若林(現松陰神社)に改葬されました。
●天保元年(1830)-安政6年(1859)