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宵待ちの宿 萩一輪のお知らせ・ブログ
【花燃ゆ】ゆかりの人々『久坂玄瑞』
更新 : 2014/11/8 10:09
【尊攘派を牽引した村塾の双璧・文の夫】
義助とも称す。藩医の家に生まれ、藩校明倫館で学ぶ。
安政3年(1856)、17歳で九州遊歴後、吉田松陰に接近し入門。
松下村塾で高杉晋作とともに「竜虎」「双璧」と称せられ、
松陰から「防長年少第一流」と絶賛される。
江戸・京都を往復し薩摩・土佐・水戸の同志と尊王攘夷運動を推進。
文久元年(1861)、長州藩論が開国を肯定した「公武合体」に傾くや、
激しい反対運動を展開し、翌2年、「破約攘夷」に転換させた。
12月には晋作・井上馨(聞多)らと英国公使館を焼き打ちするなど、
攘夷の急先鋒として活動。朝廷の権威を背景に幕府を追い詰め、
文久3年5月から浪士を率い関門海峡で外国艦砲撃を指揮した。
つづいて京都で大和行幸、攘夷親征を画策したが、孝明天皇の怒りを買い、
同年8月18日の政変で長州藩は京都での地位を失う。
三条実美ら尊攘派七卿らと共に京都から追放されたため、
失地回復を目指して奔走するが、元治元年(1864)7月19日、
禁門の変で敗れ、寺島忠三郎と共に鷹司邸において自刃し果てた。
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