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大河ドラマ「花燃ゆ」【吉田松陰と金子重輔】
更新 : 2015/3/13 2:22
金子重之輔(重輔)は、安政元年(1854)3月、吉田松陰と共に伊豆下田で米艦搭乗に失敗して自首し、萩に護送され、安政2年(1855)1月11日、金子重之輔は岩倉獄において病死しました。享年25。
吉田松陰が金子重之輔の死を知ったのはその2日後だったという。
金子重之輔の死を知った松陰は一睡もせずに『金子重輔行状』を書き上げました。
その中で松陰は「才あり気あり」の重之輔が「成る所なくして死」んでしまった事を嘆き「(自分が)之れ(重之輔の行状)を伝ふるに非ずんば、亦何を以てか其の霊魂を慰めて、友生の心に慊しめんや」と、有能な若者が成すことなく死んでしまった無念を悔しがりました。
さらに「重輔、力学不文、著述文章の世に表見するものなきも、江戸を発してより下田に至りて捕に就くまで、日々の其の見聞する所を記す。すこぶる詳悉(しょうしつ)にして観るべし」と、見聞きした事柄を完璧に記録する才能が重之輔にあった事を手放しで褒め称えています。
吉田松陰は、兄・梅太郎に送った手紙で「願はくは、渠れ(しげのすけ)が墓、直に金子重之介(重之輔)墓なりと明々に刻し、人をして識るべからしめたし」と、先祖の墓への合葬や「・・真士」と言った戒名もつけないで欲しいと頼んでいる。また自分の食事代を節約して金を出すので「灯籠を建てて欲しい。自分が生きて出獄できたら、必ず重之輔の墓を建てて供養したい」とも述べていた。
海潮寺墓地保福寺境内にある重之輔の墓前には「寄附 吉田氏」と刻まれた一対の花立があります。これは、金子重輔の死を惜しんだ吉田松陰が、自分の食事を削ってわずかな金を蓄え、金子重輔の父茂左衛門に贈り、それにより建立されたものです。
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