宿・ホテル予約 > 山口県 > 萩・長門 >  > 宵待ちの宿 萩一輪のブログ詳細

宿番号:319846

5月厳選開催中!旅応援<最大7,000円OFFクーポン>配布中♪

ハイクラス

はぎ温泉
小郡萩道路絵堂ICより約25分/萩循環まぁーるバス西回りで約13分(東萩駅前乗車→菊ヶ浜入口・萩一輪前下車)

空室検索・予約

この宿をクリップする

チャットで問い合わせる こちらの宿への質問にAIがチャット形式で答えてくれます。

宿メルマガ メールする

宵待ちの宿 萩一輪のお知らせ・ブログ

宿泊施設ブログ

  • 施設のおすすめ

    大河ドラマ「花燃ゆ」【吉田松陰の最後の言葉】

    更新 : 2015/4/30 21:37

    安政6年(1859年)5月25日早朝、松陰は野山獄から護送用の籠に入れられ江戸に向かうこととなった。松陰が江戸に送られた理由は、安政の大獄で獄死した梅田雲浜(小浜藩士・京で活躍した尊皇攘夷の志士。安政の大獄で逮捕者第一号となった人物)が萩で松陰に会った事を話したためだった。

    江戸の評定所が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜と話した内容と、京の御所に文書を置いたのではないかという2点であったが、松陰の主張は受け入れられた。そこで、松陰は幕府に自分の意見を言う絶好の機会だと捉え、「間部詮勝要撃計画」をも告白してしまう。人間を絶対的に信用し、必ず自分の思いは届くはずだと考えた松陰ゆえの告白であったが、幕府評定所の役人は予想もしなかった老中暗殺計画に驚愕した。この時、松陰の命運は決まった。

    評定所の役人の態度から死を覚悟した松陰は、家族への「永訣の書」と門下生達に向けた「留魂録」を伝馬町牢獄で記した。

    安政6年(1859年)10月27日、評定所から「死罪」が言い渡され、即日処刑が行なわれた。吉田松陰、30歳という若さであった。

    死に際しても平静かつ潔い松陰の姿に、首切り役の山田浅右衛門などは胸を打たれ、その様子を後々まで回顧した。

    「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、“御苦労様”と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」

    ◆松陰の最後の言葉◆
    「吾れ今 国の為に死す 死して君臣に背かず 悠々たり 天地の事、 鑑照 明神に在り」

    【解説】
    「私は今、国の為に死ぬ。死すとも、藩主への忠義、父母への孝行を尽くして、道に反することはない。天地は永遠で果てしなく広い。神様よ、私の行いの正しいことをご覧下さい」

    ◆辞世の句(弟子宛)◆
    「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

    【解説】
    「もしこの命が武蔵(江戸を含む当時の武蔵国)の野辺で果てようとも、自身が貫いた思想や熱情は永遠に留めておきたいものだ」

    ◆永訣の書(家族宛)◆
    「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

    【解説】
    子供が親を慕う心持ちよりも、親が子を愛する親心は、どれほどまさったものであろう。死なねばならぬ私の便りを知って故郷の両親は、どんなに悲しむことであろう。

    関連する周辺観光情報

宿泊のご予約はこちらから

料金・宿泊プラン一覧

お電話でご予約される場合は、宿泊プランをお選びください。

この宿に問い合わせる