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吉田松陰自賛肖像を描いた【松浦亀太郎(松浦松洞)】
更新 : 2015/5/13 10:38
吉田松陰が、幕府によって1859(安政6)年10月27日に江戸で処刑される前、萩で描かれた「吉田松陰自賛肖像」。その肖像を描いたのが松浦亀太郎(松浦松洞)です。
松浦亀太郎は1837(天保8)年、萩で商人の子として生まれました。幼いころから絵が好きで、京都に出て南画家の小田海僊(おだ かいせん)に師事します。その後、萩に戻り、20歳のとき、当時の画家に必要だった漢詩を学ぶため、吉田松陰が主宰していた「松下村塾」に入門。
松浦亀太郎について、吉田松陰は「才あり気あり、一奇男子なり」と評しています。
松浦亀太郎は1856、1857(安政3、4)年ごろから吉田松陰の肖像を描き始めていました。やがて吉田松陰は萩の野山獄に投じられ、幕府から江戸送りの命令が下ります。吉田松陰は、妹の婿・小田村伊之助の勧めで、その複数の肖像画に賛文を書き入れていきました。
野山獄での吉田松陰の様子について、門下生の久坂玄瑞が高杉晋作にあてた手紙で「僕は獄におられる先生をのぞき見た。からだはやせてとげとげしく、髪が乱れて顔を覆っていた」と書き、心配しています。
しかし、松浦亀太郎が描いた吉田松陰はやつれておらず、松浦亀太郎の師への尊敬の念が伝わってきます。実際、吉田松陰の顔は、その画のように面長で鼻は高く、色白で、一見威圧感はないけれども、らんらんと鋭く輝く目をしていたようです。
松浦亀太郎は吉田松陰の顔に似せるのに苦心し、幾度も描いては吉田松陰に見せました。吉田松陰は、鏡に自身を映して画と照らし合わせ、その出来栄えを認めました。こうして作られた吉田松陰自賛肖像は吉田松陰の形見として、門下生や家族に与えられました。
吉田松陰亡き後、松浦亀太郎は1862(文久2)年、久坂らとともに京都へ上り、公武合体論を主張していた萩藩士・長井雅楽の暗殺を計画しますが失敗。京都で自刃し、26年の生涯を終えます。
吉田松陰の面影を今、私たちに確かに伝えてくれる松浦亀太郎の描いた肖像画。画家で門下生、維新の志士でもあった松浦亀太郎は、彼にしかできない、魂を込めた師弟合作の作品を残し、吉田松陰の面影を後世に伝えているのです。
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