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大河ドラマ「花燃ゆ」【松下村塾の四天王・久坂玄瑞】
更新 : 2015/6/15 10:30
伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義ら多くの維新の志士、明治の元勲を輩出した松下村塾ですが、その中でも一、二を争ったのが、高杉晋作と久坂玄瑞の二人でした。
この二人に吉田稔麿を加えて、松陰門下の三秀という呼び方もされました。
さらに入江九一を合わせたのが、松下村塾の四天王という呼び名なのです。
【久坂玄瑞】
久坂玄瑞は天保11年(1840年)に、萩藩医久坂良迪の三男として生まれ、藩校医学所好生館と藩校明倫館に学びます。
学業半ばの嘉永7年(1854年)までに両親と兄が次々に亡くなったため、15歳で家督を相続し、18歳で松下村塾に入門します。
久坂の才能を知った吉田松陰は久坂を「防長第一流の人物」と評し、妹のお文を久坂に嫁がせます。安政の大獄で師の松陰が亡くなると、玄瑞は松陰の遺志を継いで長州藩の尊王攘夷運動のさきがけとなります。
文久2年(1862)年、同志高杉晋作らと攘夷血盟を行った久坂は御楯組を結成し、品川御殿山に建設中だった英国公使館を焼き討ちします。
その後、京都に入った久坂は、8月18日の政変によって長州勢力が一掃された後も、京都に留まり京における長州尊攘派の勢力回復に努めます。
元治元年(1864年)池田屋事件によって、尊攘派志士の多くが討たれたことが伝わると長州藩内には実力入京の論が盛んになり、ついに真木和泉らが諸隊を率いて進軍を開始します。
禁門の変と呼ばれたこの戦いは長州に不利に動き、久坂玄瑞も鷹司邸内で自刃したのでした。
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