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宿番号:319846

夏イベント7/11〜8/31(15時〜18時)<スパークリングワイン無料>

ハイクラス

はぎ温泉
小郡萩道路絵堂ICより約25分/萩循環まぁーるバス西回りで約10分(東萩駅前乗車→菊ヶ浜入口・萩一輪前下車)

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    世界遺産登録・明治日本の産業革命遺産「松下村塾」

    更新 : 2016/4/23 13:12

    ◆松下村塾【工学教育論を提唱した吉田松陰の実家と塾舎】◆

    松下村塾は、吉田松陰が安政4年(1857)から5年(1858)に主宰した私塾で、椿東の松陰神社の中にあります。

    吉田松陰は、天保元年(1830)、萩藩士の杉百合之助の二男として生まれました。6歳の時に、藩の兵学師範だった養父の吉田大助が急死し、その跡を継ぎ、藩校明倫館で兵学を教えることが義務付けられ、ここから人生が大きく変わります。兵学の専門家となった松陰は、日本各地を旅し、知識と見聞を広めます。

    嘉永6年(1853)、黒船来航を聞いた松陰は浦賀へ急行します。欧米の軍事力を目の当たりにし、直接自分の目で海外の実情を確かめたいと考えた松陰は、翌年、再来航した黒船に乗り込もうとしますが拒絶され、囚われの身となります。

    その後、実家に幽閉された松陰は安政3年(1856)3月、教えを請いに集まってきた親類や近所の若者に対して講義を開始しました。その後も人数が増え続けたため、家族は実家の隣にある小屋を修理して、松陰に塾舎として使わせます。その後も更に人数が増えたため、10畳半の部屋を増築しています。安政5年、幕府政治を批判した松陰は、野山獄に投じられ、塾は閉鎖されました。

    松陰が幽閉された幽囚室のある実家と塾舎が、松下村塾として構成資産の一つとなっています。松下村塾は、幕末に産業化に取り組み、産業文化を形成していった当時の地域社会における人材育成の施設を表しています。

    松陰は海防の観点から工学教育の重要性をいち早く提唱し、工学の教育施設を設立し在来の技術者を総動員して自力で産業近代化の実現を図ろうと説きました。その教えを受け継いだ塾生らの多くが、後の日本の近代化・産業化の過程で重要な役割を担いました。

    吉田松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、わずか1年余りの間でしたが、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎など、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。
    当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから「松下村塾」という名がつけられました。

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