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宵待ちの宿 萩一輪のお知らせ・ブログ
@歴史の道・萩往還【萩城跡〜唐樋札場跡〜明木市】
更新 : 2016/6/15 10:53
萩往還は、毛利氏が慶長9年(1604)萩城築城後、江戸への参勤交代での「御成道(おなりみち)」として開かれました。日本海側の萩(萩市)と瀬戸内海側の三田尻港(防府市)をほぼ直線で結び、全長はおよそ53km。
江戸時代の庶民にとって山陰と山陽を結ぶ「陰陽連絡道」として重要な交通路であり、幕末には、維新の志士たちが往来し、歴史の上で重要な役割を果たしました。
萩往還には、人馬の往来に必要な一里塚や茶屋跡、通行人を取り締まる口屋跡が残っています。大部分は国道や県道、公道として現在も利用されていますが、起伏の激しい山間道の中には廃道となったものもありました。そこで、近年これらを保存し、後世に伝えていくために整備が進んでいます。
幕末に維新の志士たちが時代とともに駆け抜けた萩往還。はるか江戸につながるこの道を、武士や庶民、そして幕末の志士たちはどのような想いで歩いたのでしょう。
【萩城跡(入口)】
慶長9年(1604年)から4年がかりで築城された萩城は、明治7年(1874年)に解体され、今は壕と城壁の一部、石垣などが残っています。指月山林は城内として保護されたため、巨樹の樹齢は600年を越えるものもあり、国の天然記念物に指定されています。
【唐樋札場跡】
萩市の中心部、唐樋(からひ)町に位置する「札場跡」。藩府・萩と防府三田尻を結ぶ、萩往還の起点となる場所です。周防・長門両国の一里塚の基点とされました。また、幕府や藩からの「御触」(法令や規則など)が掲げられた高札も立っていました。
【涙松跡・吉田松陰歌碑】
ここを過ぎると萩の町が見えなくなる為、人々はここで別れを惜しんで涙し、また帰った時は嬉し涙を流した事から、いつの間にか涙松と呼ばれるようになったそうです。安政の大獄に連座し江戸送りとなった吉田松陰は「かえらじと思いさだめし旅なれば、一入ぬるる涙松かな」の一首を残しています。
【悴坂一里塚】
悴(かせが)坂一里塚は、唐樋の札場を起点とした、最初の一里塚です(一里塚は約4km)。
【道の駅「萩往還」・松陰記念館と銅像】
松陰記念館には松下村塾が再現され、記念館の前には高杉晋作・伊藤博文などの塾生の銅像が並んでいます(入館無料)。
また道の駅「萩往還」では休憩所やレストラン・売店・トイレなどウォーキングの疲れを癒せます。
【御駕籠建場・茶屋跡】
御駕籠(おかご)建場とは、殿様一行が小休止をとるために設けられた施設です。殿様の駕籠を置く、切芝の台が2ヶ所あります。その向かいには庶民のための休憩所「茶屋」がありました。広場の西隅に水飲み場と思われる石垣が残っています。
【松陰歌碑】
本来は明木橋のたもとにあるべきもの。事情があって少し離れた下流に設置されています。
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