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宵待ちの宿 萩一輪のお知らせ・ブログ
C歴史の道・萩往還【鯖山峠〜宮市〜三田尻】
更新 : 2016/6/15 10:43
萩往還は、毛利氏が慶長9年(1604)萩城築城後、江戸への参勤交代での「御成道(おなりみち)」として開かれました。日本海側の萩(萩市)と瀬戸内海側の三田尻港(防府市)をほぼ直線で結び、全長はおよそ53km。
江戸時代の庶民にとって山陰と山陽を結ぶ「陰陽連絡道」として重要な交通路であり、幕末には、維新の志士たちが往来し、歴史の上で重要な役割を果たしました。
萩往還には、人馬の往来に必要な一里塚や茶屋跡、通行人を取り締まる口屋跡が残っています。大部分は国道や県道、公道として現在も利用されていますが、起伏の激しい山間道の中には廃道となったものもありました。そこで、近年これらを保存し、後世に伝えていくために整備が進んでいます。
幕末に維新の志士たちが時代とともに駆け抜けた萩往還。はるか江戸につながるこの道を、武士や庶民、そして幕末の志士たちはどのような想いで歩いたのでしょう。
【郡境の碑】
佐波郡と吉敷郡の境。
【 萩往還標示塔(舟橋)】
たびたび洪水に見舞われた佐波川では、舟に板を敷いて橋の代わりとする「舟橋」が寛保2年(1742年)に作られ、昭和16年(1941年)まで現存しました。
【防府天満宮】
京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と共に、日本三天神と呼ばれています。延喜4年(904年)に、日本で最初の天満宮として創建されたと伝えられています。(写真は防府天満宮の参道)
【車塚古墳】
山口県下では数少ない低地に立地する前方後円墳。前方部と後円部にそれぞれに元の横穴式石室が開口しています。
【野村望東尼終焉の宅跡】
望東尼が亡くなった荒瀬百合子宅の門。移築された終焉の宅と墓は桑山にあります。
【英雲荘(三田尻御茶屋)】
承応3年(1654年)、長州藩2代藩主の毛利綱広により、参勤交代の道中や領内巡視での休憩所、公式賓客の旅館として建てられました。萩往還はここで終点となりますが、ここから長州藩の水軍の拠点だった三田尻御舟倉に連絡して、各港と往還を結んでいました。(写真は英雲荘前の説明板)
【御舟倉(案内板)】
藩主が乗船する「御座船」などの船が係留され、周囲には船の建造や修繕のためのさまざまな施設が建てられていました。幕末には吉田松陰や坂本龍馬など、多くの志士たちがこの三田尻を経て各地を行き来しました。
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